小都市を旅する

かねてから私は,大した目的もなく小都市に行くことが好きだった.

小都市の駅に降り立つと,あたりは静まり返っていて,ロータリーに客待ちのタクシーが数台停まっている.歩道に人はおらず,多少のビルと車だけが視界に入ってくる.そこでは,淡々と静かに生活が営まれている.私にとって東京の人混みは耐え難い苦痛だったので,こうした風景は救いであり,願いでもあった.私が東京で送っていた (送っている) 暮らし——たくさんの人で溢れかえった駅や公園や歩道,通路が狭すぎるスーパーマーケット,満員電車,音と光の絶え間ない刺激,道の向こうからやってくる人とのすれ違い,それら全てを避けるため自室に籠る日々——はおよそ生活と呼べるものではなかった.少なくとも,上京前に私が送っていた「生活」とは異なっていた.私の思う生活は,もっと森閑としていなければならなかった.そこで私は,小都市への旅行という非-生活を利用して,生活に接近しようとしていた.

さて一方で,小都市を訪うたびに私は,その生活から完全に拒まれているという気がしてくる.非-生活で以て生活に近づこうとしているのだから,私はその地で現に生活を営んでいるわけではないのだから,それは当然である.更に一歩を進めると,私は小都市において,生活から主要項を差し引いた剰余——生活の上澄み——のみを味わっていたに過ぎなかった.その主要項とは,生活を真に生活たらしめるものであって,労苦,繁忙,人間関係,すなわち私が東京で心から呪っていたものである.

私が上京前に送っていた「生活」とは,生活の主要項——他者との相互作用——をもっぱら両親に負担させることで実現されていた.生活のためには金も要るし,人付き合いも欠くわけにはいかないし,どこかで毎日の食べ物を調達しなければならない.ただ東京ではこうしたこと全てが (主に過密と交通事情のために) 私からもよく見えて,地方では自動車と家族関係によって覆い隠されているだけのことだ.煩雑な人間関係,神経を摩耗させる通勤,こうしたものを全て両親に委ねて,私は静かに晴耕雨読を気取っていた.それと同様に,小都市に旅行しているときの私は,よそ者であり「お客様」であるという身分のために,生活の苦痛を一時免除されていたのだ.

すると私は,時間の問題を空間の問題と取り違えていたことになる.このことへ思いを致すとそぞろ絶望的な気分になる.なんとなれば,空間は可逆だが,時間は不可逆だからである.私はこれから数十年間,生活の主要項を——本当にうんざりするほどたくさんの人間との相互作用を——背負いながら生きていかなければならないのだろうか? 東京で暮らすにせよ,小都市で暮らすにせよ.