科学とは何か?

以下は George Orwell によるエッセイ,"What is Science?" の拙訳である.原文は https://orwell.ru/library/articles/science/english/e_scien を用いた.

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先週の Tribune 紙には J. Stewart Cook 氏による興味深い寄稿があった.その中で彼は,「科学のヒエラルキー」の危険を避ける最善の道は,一般の市民が可能な限りの科学教育を受けることで得られる,と述べている.同時に,科学者は孤立をやめて政治および行政で大きな役割を果たすべきだとも.


一般的な主張としては,われわれの多くはこれに賛同するだろう.しかし,Cook 氏は (よくあることなのだが) 科学とは何かを定義しておらず,単に「科学とはある種の厳密な学問であって研究室の中で実験が行われるようなものだ」と示唆しているに留まっている.したがって,経済学や社会学は科学の分野だとは見なされないために,「社会人への教育が文学,経済学,社会学を重視して科学を無視している傾向にある」とされる.これは明らかに重要な点である.今のところ,科学という語は少なくとも 2 つの意味を持っている.そして,科学教育に対する疑問はみな,一方の意味を他方の意味と取り違える現下の傾向によって曖昧になっている.


科学は,一般には (a) 化学や物理学といった厳密な科学 (ハードサイエンス),(b) 観察事実からの論理的な推論によって検証可能な結果を導く思考の方法,というどちらかの意味で捉えられている.


だれかしら科学者や,あるいは教育を受けた人に「科学とは何か?」と尋ねれば,(b) に近い答えを得るだろう.しかし,日常生活では,話し言葉にせよ書き言葉にせよ,「科学」という言葉が使われるときには (a) を指しているのである.科学とは何かしら研究室の中で行われるものである,と.「科学」という言葉自体が,グラフ,試験管,天秤,ガスバーナー,顕微鏡といったイメージを想起させる.生物学者天文学者,さらにはおそらく心理学者や数学者も「科学に携わる人」とされる.一方で,誰もこの呼称を政治家,詩人,ジャーナリストや哲学者に使おうとは考えないだろう.そして,「若者は科学教育を受けるべきだ」と述べる人は,ほとんど間違いなく,「若者は放射能や天体や生理学や人体について教育されるべきだ」と言っているのであって,「若者はより厳密に考えるよう教育されるべきだ」と述べているのではない.


こうした語義の混同は――その一部は意図的だが――大きな危険をはらむ.科学教育を求める人が暗黙裡に主張しているのは,ある人が科学的な教育を受けたならば,「任意の」対象に対する彼のアプローチは,そうした教育を一切受けなかった場合に比べて,より知的になるだろう,ということだ.そこでは,政治,社会,道徳,哲学,そしておそらくは芸術に対する科学者の意見は,素人の意見よりも価値があると仮定されている.言い換えれば,もし科学者がコントロールしたならば,世界はもっとよい場所になるだろうと考えられている.しかし,先述したように,(ここにおいて)「科学者」という語は実際には厳密な科学 (ハードサイエンス) を意味しているのだ.したがって,化学者や物理学者は詩人や弁護士よりも政治的に賢明であるということになる.実際にそのように信じている人々が数百万人から存在するのである.


しかし,こうした狭い意味での「科学者」はそうでない人々よりも,科学と関係ない問題に対しても客観的なアプローチをしそうだ,という考えは果たして本当だろうか? そう考える理由はあまりない.一つ簡単な例を出そう.ナショナリズムに抵抗する能力についてである.しばしば「科学は国際的である」と大雑把に言われるが,実際にはあらゆる国において,科学者は自国の政府に追従した.この際に科学者らが抱いた罪悪感は,作家や芸術家たちが抱いたものよりも少なかった.ドイツの科学界は,全体としてヒトラーに一切の抵抗を示さなかった.なるほどヒトラーはドイツにおける科学の長期的な視野を破壊したが,たくさんの才能ある科学者たちが合成石油,ジェット機,ロケットの弾道計算,そして原子爆弾についての研究に不可欠な役割を果たしていたのだ.彼らなしではドイツの軍事機構は絶対に成り立たなかっただろう.


一方で,ナチスが権力の座についたとき,ドイツの文学界には何が起きたか? 起きたことの網羅的なリストは今のところ公開されていないだろうが,私が思うに,自発的に国を去ったり,政権によって訴追されたりした科学者は――ユダヤ人科学者を除くが――,同様にした作家やジャーナリストよりもはるかに少なかっただろう.なお悪いことに,「人種科学」という怪物を崇拝した科学者は多数存在したのである.彼らが名を記した声明のいくつかを,Brady 教授の "The Spirit and Structure of German Fascism" で見つけることができる.


とはいえ,少し異なる形ではあるが,似たような光景はどこでも見られる.英国では,指導的地位の科学者たちの大部分は資本主義社会の構造を受け入れている.それは彼らがナイトや男爵といった称号,ときには貴族の地位を与えられるときの,あまり抵抗を感じていないさまを見ることでも分かる.Tennyson 以来,読むに値する作品をものした英国の作家は誰も――あるいは Max Berrbohm が例外とされるかもしれないが――称号を授けられていない.さらに,「現状」を単純に受け入れてはいない英国の科学者は,たいてい共産主義者である.すなわちそうした人々も,自らの研究領域では知的に慎重であっても,ある分野については容易に無批判になったり不誠実になったりするのだ.実際は,一つやそこらのハードサイエンスの分野で訓練を受けたところで,非常に優れた才能があったとしても,人道的で盲信を退けるような視野が得られる保証はない.半ダースもの大国の物理学者が熱狂的かつ秘密裏に原子爆弾の開発に取り組んだ事実がそれを例証している.


しかし,これら全ては,公衆が科学的な教育をもっと受けるべきではない,ということを意味するだろうか? むしろ,その反対である! これら全てが意味しているのは,大衆に対する科学教育は,もしそれが単に物理学や化学や生物学を一層教え込んで,代わりに文学や歴史学を軽視したならば,少しの善と大量の害をもたらすだろう,ということだ.こうした科学教育を受けた人はおそらく,思考の幅が狭まり,専門ではない領域の知識を軽蔑しさえするようになるだろう.そして,そうした人の政治に対する反応は,歴史についてのいくらかの記憶と非常に健全な感覚を持つ無学な農民のそれよりも,もっと愚かしくなるはずだ.


科学教育という語が「合理的,懐疑的,実験的な思考の慣習を根付かせること」を意味するべきなのは明らかだ.それは方法論――直面するいかなる問題に対しても用いることができる手法――の獲得を意味するべきで,単なる事実の羅列に終わるべきではない.このように述べれば,科学教育を唱える人たちは同意するだろう.(そこで,)更に突き詰めて,彼にもっと具体化するように尋ねると,だいたいいつも「科学教育は,科学――言い換えれば,事実――に対してもっと注意を払うことを意味する」と述べる.科学とは世界に対する見方を意味するのであって,単なる知識の体系ではない,という考え方は,現実ではかなり強固に拒まれている.思うに,単なる職業上の嫉妬がその理由である.科学とは方法論や態度であって,十分に合理的な思考をする人なら誰でもある意味で科学者と呼ばれうるのだとすれば,化学者や物理学者が現下に享受している名声や,そうした人たちは他の人よりもいくらか賢いという主張はどうなってしまうのだろうか?


100 年前に Charles Kingsley は科学を「研究室で悪臭を製造している」と述べた.去年か一昨年に,ある若い化学者が気取って,私に「詩の効用が何なのか分からない」と言った.これは振り子が行ったり来たりしているようなもので,私には一方の態度が他方より優れているとは思えない.今のところ科学は成長しているので,大衆は科学教育を受けるべきだという主張が聞こえてくるのももっともである.だが,科学者たち自身も教育から何かしら得られるだろうという主張――当然あるべきなのだが――は聞こえてこない.本稿を書く前に,ある米国の雑誌で,多くの英国と米国の物理学者が,それが何をもたらすかを熟知していたために,原子爆弾の開発研究をはじめから拒んだ,という記述を見かけた.狂った世界の中で正気を保っている人たちがいるのだ.名前こそ明らかになっていないが,彼らはみな広範な文化的素養を持ち,歴史や文学や芸術のこともいくらか知っていただろうと私は考えている.端的に言えば,彼らの関心は,現在の語義における純粋な科学ではなかったのである.