「ら抜き言葉」の極北

いわゆる「ら抜き言葉」は,「日本語の乱れ」の代表例である.「ら抜き言葉」を肯定的に捉える人も多く,その理由として「ら抜きによって可能と受動・自発を区別できる」が挙げられる.

ところが最近は,受動・自発でも「ら」を抜く用法が一部で見られる.個人的にもっともよく見かけるのは「憚れる」である.次によく見るのは (受け身の意味での)「断れる」だと思う.どちらも,

  • 可能を表すのならば「れる」で正しいが,文脈上,自発か受動を表している.
    • したがって,辞書的には,本来「られる」をつけるべきである.
  • 語幹が 3 文字である.

という特徴を持つ.

思うに,語幹が 3 文字と多いところに「られる」をつけると大変まどろっこしいので,「ら」を抜いているのだろう.気持ちは分かる.

こうした用法は,まだ一般化していないが,使っている人は一定数確実にいる.このことは Twitter で検索してみると分かる.特に「憚る」は可能の意味で使うことが皆無なので,「憚れる」で検索してヒットするのは,ほぼ全て「ら抜き言葉」である.

 

これは,形式的には「ら抜き言葉」だが,実際はそれと逆の結果を招く.可能で「れる」を使う古典的「ら抜き言葉」では,可能と受動・自発で用いる助動詞を変えることで,文脈に依存せず意味を表せるようにしていた.ところが,「憚る」「断る」は五段活用動詞なのだから,受動・自発で「れる」を使えば,可能と見分けがつかなくなる.

 

以下は特に根拠のない想像だが,一部の日本語話者は,別に可能と受動・自発を区別したいと思って「ら抜き言葉」を使っているのではないだろう.「られる」がまどろっこしいし,違和感があるから,なんとなく縮めているだけである.

仮にこうした用法が広まれば,「食べる」「寝る」のような上一段 / 下一段活用動詞でも「られる」が消滅してもおかしくない.そうなると,「可能と受動・自発を区別できる」という「ら抜き言葉」のメリットは失われて,この区別の意味で,「ら抜き言葉」以前と同じ状況が復活するだろう.

その場合,数世紀後の日本語研究者にとって,わたしたちの時代,つまり可能の用法でのみ「ら抜き言葉」を使っていた時代は,(上一段 / 下一段 / ラ行五段活用動詞でも) 可能と受動・自発が区別されていた稀有な数十年間に見えるはずである.

 

以上の話を友人にしたところ,「ただの誤字じゃないかな」とのコメントを受けた.ただの誤字かもしれない.