「人間宣言」の成立について

はじめに

本記事では,1946年1月1日に渙発された「新日本建設に関する詔書」(いわゆる人間宣言.以下,単に詔書とも呼ぶ)の成立過程について考察する.

詔書の成立には未だ不明な点も多く,研究書や論文の間で一致しない主張も散見される.本記事では,成立過程のうち概ね正しいと考えられる部分を整理するとともに,研究者間での異同について簡単に述べる.その上で,GHQ,首相,文相,宮中といったアクターが詔書に及ぼした影響を論じ,GHQがはじめに意図した,天皇の神性否定という詔書の役割が,成立過程で変質したことを説明する.

以下の文章はもともと,前学期に履修した科目の期末レポートとして執筆したものである.文字数制限があったために,提出にあたっては内容をかなり削る必要があった.個人的にたいへん興味があるテーマだっただけに,文字を削るのは至難であり,文章を尽くせないのは残念だった*1.そこでこの際,削る前の文章を個人的に公開しようと考え,記事としている.

詔書の成立過程

詔書渙発の背景とCIE案

終戦後,GHQ民間情報教育局(CIE)において教育・思想政策を担当することになるハロルド・ヘンダーソンは,国家神道が「膨張する戦争を正当化するために、軍国主義者や超国家主義者によって使われてきた」との観点に立ち,こうした思想・宗教的背景の除去を目指した*2.1945年12月には国家神道の廃止や政教分離を謳う神道指令がGHQより発せられた.「人間宣言」は,当初,神道指令に連なる思想的政策の一貫として構想されたものである.

CIE局長のケン・R・ダイクによる12月3日付の文書「神道指令のスタッフ・スタディ」では,上述した意図のもと天皇勅語を公布すべきこと,勅語の内容は,天皇や日本人などが他国に優越しているという観念を否定し,人権的平等と人類共通の関心を尊重するものであるべきこと,が勧告された*3.ここからは,GHQ側が,神道指令と相互補完的な詔書によって天皇の神格を否定し,超国家主義イデオロギーを除こうとしていたことが読み取れる.

ヘンダーソンは,CIE課長として学習院講師のレジナルド・ブライス接触した.12月はじめには,ブライスに「人間宣言」の構想を伝え,自らの草案を提示した.ここで提示された草案をもとに,ブライスヘンダーソンが共同で詔書案を執筆した.こうして初めに書き上げられた詔書案はCIE案と呼ばれる.学習院に保管されているCIE案(英文および和訳)は6段落からなるもので,「人類愛」「人類に対する忠節」を強調するとともに,「日本人は神の子孫であり、他の国民より優れ、他を支配する運命を有すという誤れる観念」を否定している*4.また,別紙において,天皇が自ら個人の神格化(deification)も神話化(mythologizing)も強く否定する,と補足されている.

日本側へのCIE案の提示

ところで,実際に渙発された詔書は,先述したCIE案とは大きく異なっている.以下では,日本側が詔書案を作成して過程を詳しく論じ,その中で生じた変化について述べる.

CIE案は,12月15日にブライスから学習院院長の山梨勝之進へ伝えられた.翌16日には山梨を経て学習院事務官の浅野長光にCIE案が渡り,同案の和訳が作成された.先述した,学習院に保管されているCIE案は,このとき浅野が作成したものとその原文である.

こうして学習院に渡ったCIE案がどのように内閣および宮中に届けられたかには,不明な点が残る.大原康男によれば,まず山梨から宮内省高官(石渡荘太郎宮内大臣か,松平慶民宗秩寮総裁のどちらかであるとする)へ同案が届けられ,「このような詔書の発布は、本来は宮内省ではなく、政府の所管するところである」から,山梨が吉田茂外相へ同案を手交し,吉田から幣原喜重郎首相に伝わった,という流れである*5.すなわち,宮内省と内閣へCIE案がパラレルに提示され,以降は内閣(正確には,幣原首相および前田多門文相のみ)が起草を主導したとする.

一方で,松尾尊兊は,16日に山梨と浅野が宮内省GHQの意向を伝えるとともにCIE案を示し,「12月19日、宮内省案(天皇の意思で「五カ条の御誓文」が付加された)が浅野に渡され、翌20日、政府とGHQに届けられた。24日、幣原首相は天皇に会い、詔書は政府の責任で作成することを取り決めた」とする*6.すなわち,山梨から宮内省へ,宮内省から内閣へ,という順序であるとされている.松尾による以上の記述は,概ね大原論文を元にしているが,浅野の証言*7を取り入れている.

ここで,「宮内省案」がどのようなものであったかは判然としない.大原論文には宮内省案の存在が見えず,その存在は浅野の証言に基づいていると思量される(同証言は,大原論文の後に報道されている).ともかく,21日の時点で幣原ら内閣側に起草の主導権が渡っていたこと,五箇条の御誓文を盛り込む(宮内省)案は,仮にあったとすればどこかで一度握り潰されていること,は言えよう.

内閣における起草

CIE案(あるいは宮内省案)を受けた幣原は,23日に文部大臣の前田多門にそれを示し,和文詔書を起草するよう依頼した*8.前田は依頼を受け,内閣書記官長の次田大三郎と協力して詔書案を執筆した.ところで,これと前後して,幣原自身によって詔書案(初めに英語で執筆し,それを和訳した)が書き上げられている.通説では,これを前田による草案に基づいて書いたものとするが,前田案とは並行して書かれたもので,後に前田と突き合わせたものだとする説もある*9.いずれにせよ,最終的に閣議へかけられた案は,前田と幣原の両者が手を入れていると見てよい.

なお,侍従次長の木下道雄は,自らの日誌に25日付で「Macの方では内閣の手を経ることを希望せぬ様だ。これは一つには外界に洩れるのを恐れる為ならん」と書いている*10.上述の通りこの段階では主に内閣側の幣原・前田・次田が草案を作っているが,幣原が前田に秘密の厳守を求めている*11ことからも,これら限られた人間を除いて内閣は関与していないと言える.河西秀哉は,マッカーサーが機密性にこだわった理由を,「[引用者注:詔書が]あくまで天皇による自発的意思であることを内外に示す」ことにあったと推論している*12

この後,幣原が肺炎にかかったため,前田が上奏して天皇に草案を見せた.『昭和天皇実録』によれば,これは29日のことである*13.前田の回想では,このときに天皇から五箇条の御誓文を挿入するよう求められた*14.これに基づけば,23日に前田が起草を依頼されたとき,提示された案に五箇条の御誓文はなかったことになる.すなわち,「宮内省案」は前田に渡っていない.このことを考慮すれば,宮内省案については,浅野以後・前田以前(吉田ないし幣原)で握り潰されたか,浅野の記憶違いであるか,のどちらかである可能性が高いと筆者は考える.また,このことから,21日以前に天皇詔書に介入しなかった(あるいは,しても黙殺された)が,29日に前田へ御誓文の挿入を求め,この段階では影響力を発揮した,と推論できる.

のちに昭和天皇自身が「それが実はあの時の詔勅の一番の目的なんです。神格とかそういうことは二の問題であった」「『五箇条御誓文』を発して、それがもととなって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入のものではないということを示す必要が大いにあった」と述べている*15ことからも,御誓文については昭和天皇の強いイニシアティブが発揮されたと言える.

宮中の介入

幣原の起草した英文草案は,憲政資料室が保管する原稿*16によれば,CIE案から文言や段落構成などが大きく変わっている.幣原草案の第3段落は"n Japan, love of the family and love of the country have always been markedly strong. With no less devotion should we now work towards love of mankind" であり,家族や国家に対する愛を人類愛まで高めるべきだ,という趣旨はCIE案と共通する部分がある.しかし,「人類に対する忠節は、国家への忠節の上に行くものである」とするCIE案の第3, 4段落は落とされている.松尾尊兊はこの変更について,「③の部分[引用者注:人類愛を謳う段落]との重複を避けたのかも知れぬが、国家すなわち天皇への忠節を否定するものと解して、わざとこの節を落とした公算が大きい」とする*17

そして,天皇の神格否定に関する部分(第4段落)では,"……They [筆者注 : the ties between Us and our people を指す] are not predicated on the false conception often ascribed to the Japanese that we are of divine descent, superior to other peoples and destined to rule the world." と述べられており,CIE案と同様である.幣原草案では,否定される "the false conception" として,日本人を神の末裔とするもののみが挙げられており,天皇の神格には言及されていないことに注目したい.

さて,29日に前田から天皇へ示された草案は,幣原草案が元になっていると考えられるが,重要な差異がある.侍従次長の木下は,29日に前田文相から示された草案に対する不満を日誌に残している.

2時、前田文部大臣と面談(詔書案について)。

(中略)

詔書案中気に入らぬことは沢山ある。殊に文体が英語(幣原首相の筆になる)の翻訳であるから徹頭徹尾気に入らぬ。

最も彼我の間に要点となれる一項、即ち原案に依れば、

朕と我国民との間の紐帯は終始相互の信頼と愛情に依りて結はれ来たる特性を有す。此の紐帯は単なる伝説と神話に依るに非す。日本人を以て(これをMac自身はEmperorと書き改めた)神の裔なりとし他の民族に優越し世界を支配すへき運命を有すとの屡々日本人の責に期せしめられたる[下線は原文](これは学習院ブライスの原文に首相が加入せる文句)架空なる観念に依り(false conception)説明(predicated)せらるるものにも非す

と云う所である。日本人が神の裔なることを架空と云うは未だ許すべきも、Emperorを神の裔とすることを架空とすることは断じて許し難い。*18

木下が前田と面談した際に提示されたとする詔書案は,「文体が英語の翻訳」であることや,語句の一致(false conception, predicated, 屡々日本人の責に期せしめられたる : often ascribed to the Japanese)などを見るに,幣原英文草案を下敷きにしたものであろう.しかし,「日本人を以て(これをMac自身はEmperorと書き改めた)神の裔なりとし」という部分からは,天皇が神の末裔であることを否定するよう,マッカーサーによって文言が変更されたことが分かる.幣原草案と対比することで,幣原・前田の起草以降,天皇へそれが示される前の段階(おそらく27, 8日あたりであろう)でマッカーサーが介入したと推察できる.

木下は,天皇が神の末裔であることを否定することを避けるため,「朕を以て現神と」することを否定する文案を作成した*19.この変更は,紆余曲折*20を経て,「天皇を以て現御神と」することを否定する形で,最終的な詔書に反映された.その他のいくつかの点についても木下は修正を求めて交渉したが,幣原が「Macとの信義」を理由として反対したため通らなかった.

なお,幣原草案には "……our people are liable to grow restless and to fall into the Slough of Despond. The sense of morality tends to be lose its hold on them" と道徳の衰えを懸念する文言こそ見られるが,最終的な詔書における「詭激の風漸く長じて」「思想混乱の兆」のような,直接に思想的混乱を指した語句は現れていない.「危険思想(主に共産主義思想)」に対する昭和天皇の忌避感を考慮すれば,天皇自身や側近が上奏時にこれらの文言を付するよう求めたとしても決して不自然ではないだろう.ただし,天皇や側近からこうした要求があったという形跡は,前田の回想や木下の日誌には見られない.特に,前田は御誓文の挿入を指して「内容的の事柄について、天皇が発言せられたのはそれだけであった」としている*21.他方,幣原草案以降に文言が変更され得たタイミングとしては,上奏時の他にはマッカーサーGHQ側の要求または閣議での文案修正しか考えられず,消去法的に天皇の介入を類推することもできる.いずれにせよ断言は難しく,「思想混乱の兆」のような語句が,天皇や側近の要求で付け加えられた可能性を指摘するに留めたい.

こうして最終的に渙発された詔書は,冒頭に五箇条の御誓文を掲げて明治天皇の「御趣旨」を高揚するとともに,天皇が現御神であることを否定するものの神の末裔であることは否定せず,「詭激の風」「思想混乱」を懸念するものであった.CIEが当初意図していた神格の否定は部分的に達成されたものの,「人類に対する忠節」といったCIE案のコンセプトは除かれた.松尾尊兊はこの「換骨奪胎」を評して「新たなる『人間の天皇宣言』」と述べている*22.なお,詔書とともに幣原が発表した謹話では,御誓文を強調して天皇の神格に言及していない一方,マッカーサー天皇が「民主化に指導的役割を果たさんとしている」と述べていることは,日米両側の人間宣言に対する姿勢の違いを端的に表していると言える.

おわりに

以上,基本文献と史料をもとに「人間宣言」成立の過程を追った.本記事で述べたことを今一度まとめると,以下のようになる:GHQ(の部局であるCIE)の主導で詔書の構想が始まり,最初の草案がヘンダーソンらにより書かれた.これは山梨・浅野を経て宮内省および内閣に渡り,この段階では天皇宮内省が介入を果たせなかった.幣原と前田がCIE案を元に詔書案を起草した.前田が上奏した段階で天皇が介入し,五箇条の御誓文が挿入された.また,どこかの時点で「思想混乱」への懸念が付け加えられたほか,天皇の神格についてマッカーサーが介入したことに側近が抵抗した.こうした全体の流れのなかで,詔書の意図や,細かいが重要な文言が頻繁に変更された.

*1:文字数がオーバーするのは題材選択が不適当だからだ,と言われると,ぐうの音も出ない.

*2:升味準之輔昭和天皇とその時代』山川出版社,1998年,56ページ.

*3:松尾尊兊『戦後日本への出発』岩波書店,2002年,62ページ.

*4:毎日新聞,2006年1月4日朝刊(東京版),戦後60年の原点:シリーズ・あの日を今に問う 天皇人間宣言』.

*5:大原康男神道指令の研究』原書房,1993年,97--98ページ.

*6:前掲,松尾『戦後日本への出発』,63ページ.

*7:読売新聞,1988年9月29日朝刊(東京版),「人間宣言の五箇条御誓文 陛下の強いご意思」

*8:前田多門「『人間宣言』のうちそと」,『文藝春秋』1962年3月号.

*9:佐々木高雄「『人間宣言』の成立経緯について」,青山学院大学法学会編『青山法学論集』,第53巻第3号,2011年12月,1--55ページ.

*10:木下道雄著,高橋紘解説『側近日誌』文藝春秋,1990年,12月25日項,86ページ.

*11:前掲,前田「『人間宣言』のうちそと」.

*12:河西秀哉『「象徴天皇」の戦後史』講談社,2010年,45ページ.

*13:宮内庁書陵部編『昭和天皇実録』,巻34 昭和20年下,12月29日項,192ページ.

*14:前掲,前田「『人間宣言』のうちそと」.

*15:高橋紘『陛下、お尋ね申し上げます』,1998年,252ページ.

*16:憲政資料室保管資料「幣原平和文庫」,マイクロフィルム リール7 [213--219].

*17:前掲,松尾『戦後日本への出発』,69ページ.

*18:前掲,木下『側近日誌』,89--90ページ.

*19:前掲,木下『側近日誌』,90ページ.

*20:一度はこの文案が前田に受け入れられるも,行き違いにより閣議には原案が提出された.

*21:前掲,前田「『人間宣言』のうちそと」.

*22:前掲,松尾『戦後日本への出発』,71ページ.