確率過程の sup 評価 ―― 行列ノルムを例として

はじめに

 M = (M_{i, j}) n \times m サイズの実数値ランダム行列とし,各要素は  \sigma^2-subgaussian な分布に独立に従うとする.このとき, M の ( \mathbb{R} の 2-ノルムから誘導された) 作用素ノルム,すなわち
 \displaystyle{ \| M \| = \sup_{\| v\|, \| w \| \le 1} \langle v, Mw \rangle }
の期待値を上から評価する問題を考える.この問題は,適切な定式化によって,Lipschitz な確率過程において  \sup を求めることに帰着する.この記事では,Lipschitz 過程における上界評価の具体的な手法を紹介し, \|M\| の上界を求めることを目指す.

なお,この記事の大部分は,van Handel [1] を輪読した際のゼミ資料から抜粋して,(発表時に頂いたコメントを反映しつつ) 記述を全体的に簡略化したものである.

添字集合が有限な過程

 \{ X_t \}_{t \in T} という確率過程を考える. T は添字集合 (例えば,時刻や位置の集合) である.いま,期待値  \mathbb{E} \left[ \sup_{t \in T} X_t \right] を評価したい.標語的には,この上界は「確率過程の連続性」と「添字集合の複雑性」によって決まる.

もっとも単純なケースとして, T が有限集合であって, X_t が任意の  t \sigma^2-subgaussian となる状況を考える.このとき,どこかで見たような式による評価が得られる.

Lem. 1
 \{ X_t \}_{t \in T} を確率過程とする. |T| < \infty であり,任意の  t \in T, \lambda \ge 0 \log \mathbb{E} [ \exp (\lambda X_t) ] \le \sigma^2 \lambda^2 / 2 が成り立つと仮定する.このとき,
 \displaystyle{ \mathbb{E} \left[ \sup_{t \in T} X_t \right] \le \sqrt{ 2\sigma^2 \log |T| } }
が成り立つ.

pf.
 \psi (\lambda) = \sigma^2 \lambda^2 / 2 とする.Jensen の不等式により,任意の  \lambda \ge 0 について,
 \displaystyle{  \mathbb{E} \left[ \sup_{t \in T} X_t \right] \le \frac{1}{\lambda} \log \mathbb{E} [e^{\lambda \sup_{t \in T} X_t} ] \le \frac{1}{\lambda} \log \sum_{t \in T} \mathbb{E} [e^{\lambda X_t} ] \le \frac{\log |T| + \psi(\lambda)}{\lambda} }
が成り立つ.ここで,右辺で  \lambda について  \inf を取ることで不等式を tight にしたいが,相加平均・相乗平均の不等式から, \sqrt{ 2\sigma^2 \log |T|} が最適な評価である (かつ,実際にこの評価を達成できる) ことが分かる.(証明終)

Rmk.
この補題は, X_t が subgaussian でなくても,モーメント母関数の対数が有界 ( \psi (\lambda) によって抑えられる) な場合に一般化できる.その場合は, \psi (\lambda) の Legendre 変換を用いた不等式評価が得られる.

Lipschitz 過程と covering number

 T が無限集合の場合,上述したような評価は使えない (自明な不等式しか与えない).そこで, T を有限集合  N によって近似することを考える.もし,確率過程  X_t が添字について「連続」であれば,適切に  N を構成することで,近似誤差をある程度小さくできる.この観察を定式化するため,「連続」な過程のもっとも強い形である Lipschitz 過程を導入する.

Def. 2
確率過程  \{ X_t \}_{t \in T} が距離  d : T\times T \to \mathbb{R}_{\ge 0} について Lipschitz であるとは,確率変数  C が存在して,任意の  t, s \in T に対して
 \displaystyle{ |X_t - X_s| \le C d(t, s) }
が成り立つことである.

Rmk.
確率過程が Lipschitz であるという仮定は強い.つねにこのような評価ができるとは限らないことに注意する必要がある.たとえば,Wiener 過程は一般に Lipschitz でない.

次に, T を近似する有限集合  N の構成について考える. N は, T の任意の点から離れすぎておらず,かつ集合としてできるだけ小さいものにしたい.この直観的な考え方に基づいて,net と covering number という概念が定義される.
Def. 3
 N (T, d) \epsilon-net であるとは,任意の  t \in T に対してある  \pi (t) \in N が存在して, d (t, \pi (t)) \le \epsilon を満たすことである.また, (T, d) \epsilon-netのうち最小のものの濃度を covering number と呼び, N(T, d, \epsilon) と書く.すなわち,
  \displaystyle{ N(T, d, \epsilon) = \inf \{ |N| \mid Nは(T, d)の\epsilon{\text-}net \} .}

以上で,「確率過程の連続性」と「添字集合の複雑性」をそれぞれ表す指標が定まった.すなわち,前者は確率過程の Lipschitz 定数であり,後者は  (T, d) の covering number である.

Lipschitz 過程の sup

これまで導入した定義を用いることで,各時刻で subgaussian であるような Lipschitz 過程で  \sup を評価することができる.

Lem. 4
 \{X_t\}_{t\in T} は Lipschitz 過程であり,Lipschitz 定数は  C であるとする.また,任意の  t \in T について  X_t \sigma^2-subgaussian であるとする.このとき,
 \displaystyle{ \mathbb{E} \left[ \sup_{t \in T} X_t \right] \le \inf_{\epsilon > 0} \left\{ \epsilon \mathbb{E} [C] + \sqrt{2\sigma^2 \log N(T, d, \epsilon)} \right\} }
が成り立つ.

pf.
 \epsilon を任意の正数とし, N (T, d) \epsilon-net とする.このとき,
 \displaystyle{  \sup_{t \in T} X_t \le \sup_{t \in T} \left\{X_t - X_{\pi (t)} \right\} + \sup_{t \in T} X_{\pi (t)} \le C \epsilon + \sup_{t \in N} X_t }
である.ここで,最右辺第 2 項では, N が有限集合だから,Lem. 1 が適用できる.不等式の両辺で期待値を取ると,
 \displaystyle{ \mathbb{E} \left[ \sup_{t \in T} X_t \right] \le \epsilon \mathbb{E} [C] + \sqrt{2\sigma^2 \log |N|}. }
 \epsilon > 0 N は任意だったから,それらについて右辺を最小化することで,
 \displaystyle{  \mathbb{E} \left[ \sup_{t \in T} X_t \right] \le \inf_{\epsilon > 0} \left\{ \epsilon \mathbb{E} [C] + \sqrt{2\sigma^2 \log N(T, d, \epsilon)} \right\} }
を得る.(証明終)

Packing number

さて,具体的な評価を得るためには covering-number  N(T, d, \epsilon) を求める (少なくとも,抑える) ことが必要である.そのために,数理最適化における双対問題と類似した概念を covering number に対して導入する.
Def. 5
 N \subseteq T (T, d) \epsilon-packing であるとは,任意の相異なる  t, t' \in N について  d(t, t') > \epsilon が成り立つことである.また, (T, d) \epsilon-packing のうち最大のものの濃度を packing number と呼び, D(T, d, \epsilon) で書く.すなわち,
  \displaystyle{ D(T, d, \epsilon) = \sup \{ |D| \mid Dは(T, d)の\epsilon{\text {-packing}} \}. }

Covering number と packing number の間には,ある種の双対定理が成り立つ.
Lem. 6
任意の  \epsilon > 0 について,
  \displaystyle{  D(T, d, 2\epsilon) \le N(T, d, \epsilon) \le D(T, d, \epsilon). }

pf.
 D 2\epsilon-packing とし, N \epsilon-netとする.定義から,任意の  t \in D について, \pi (t) \in N d(t, \pi (t)) \le \epsilon となるように選べる. t \neq t' ならば,
 \displaystyle{ 2\epsilon < d(t, t') \le d(t, \pi (t)) + d(\pi (t), \pi (t')) + d(\pi (t') , t') \le 2 \epsilon + d(\pi (t), \pi (t')) }
だから, d(\pi(t), \pi (t')) > 0 である.すなわち  \pi : D \to N単射で, |D| \le |N| が従う.したがって, D(T, d, 2\epsilon) \le N(T, d, \epsilon) である.

次に,右側の不等式を示すために, D (T, d) の最大  \epsilon-packing とする.このとき, D \epsilon-net でもある.実際,ある  t \in T があって任意の  t' \in D に対して  d (t, t') > \epsilon とすると, D \cup \{ t \} もまた  \epsilon-packing であり, D の最大性に矛盾する.(証明終)

行列ノルムの評価

いよいよ,最初に言及した行列ノルムの評価をおこなう.繰り返すと, M は各要素が独立かつ  \sigma^2-subgaussian であるようなランダム行列であり,
 \displaystyle{ \| M \| = \sup_{\| v\|, \| w \| \le 1} \langle v, Mw \rangle }
の期待値  \mathbb{E} [ \|M\| ] を評価したいのだった.

 B_2^n = \{ x \in \mathbb{R}^n \mid \| x \| \le 1 \}, \; T = B_2^n \times B_2^m とし,
 \displaystyle{ X_{v, w} = \langle v, Mw \rangle = \sum_{i = 1}^n \sum_{j = 1}^n v_i M_{ij} w_j }
とすると,
 \displaystyle{  \| M \| = \sup_{(v, w) \in T} X_{v, w} }
と書ける.そこで,作用素ノルムの評価は,添字集合  T を持つ確率過程の  \sup を求める問題に帰着する.さらに,この過程は, T に適切な距離を入れることで Lipschitz となる.そのことを示そう.

Azuma の不等式から,任意の  (v, w) \in T について, X_{v, w} \sigma^2-subgaussian である.さらに,
 \displaystyle{  \begin{equation*} \begin{split} |X_{v, w} - X_{v', w'} | &= | \langle v, Mw \rangle - \langle v', M w' \rangle | \\ &= | \langle v - v', Mw \rangle + \langle v', M w - w' \rangle | \\ &\le | \langle v - v', Mw \rangle| + | \langle v', M w - w' \rangle | \\ &\le \|v - v' \| \| M \| \| w \| + \| v' \| \| M \| \| w - w' \| \\ &\le \| M\| (\| v - v' \| + \| w - w' \| ) \end{split} \end{equation*} }
が成り立つ.したがって, T 上の距離  d d ( (v, w), (v', w') ) = \| v - v' \| + \| w - w' \| で定めると, X_{v, w} は Lipschitz 過程となる.Lipschitz 定数は  \| M \| である.以上で,Lem. 4 を用いるための仮定が揃った.Lem. 4 の不等式に Lipschitz 定数を代入して整理すると,
 \displaystyle{ \mathbb{E} [ \| M \| ] \le \inf_{\epsilon > 0} \frac{\sigma \sqrt{2}}{1 - \epsilon} \sqrt{ \log N(T, d, \epsilon)} }
を得る.

さらに, T が Euclid 空間の単位球の直積であることを踏まえて,packing number との双対性を利用しつつ,covering number を求める.
Lem. 7
 B_2^n を, n 次元 Euclid 空間の単位球とする. 0 < \epsilon < 1 のとき,
 \displaystyle{ \left( \frac{1}{\epsilon} \right)^n \le N(B_2^n, \| \cdot \|, \epsilon) \le \left( \frac{3}{\epsilon} \right)^n .}

pf.
図を描いて考えると,比較的明らかである.

図 1 は, B_2^n を青い円で描き, 2\epsilon -packingの点を打ったものである.赤い円の面積の総和は,グレーの円 (半径  1 + \epsilon) の面積以下である.小さい円は互いに交わらないから, \lambda を Lebesgue 測度として,
 \displaystyle{ |D| \lambda (B (0, \epsilon)) = \sum_{t \in D} \lambda ( B (t, \epsilon)) = \lambda \left( \bigcup_{t \in D} B(t, \epsilon) \right) \le \lambda (B(0, 1 + \epsilon)). }
したがって,
 \displaystyle{ |D| \le \frac{\lambda(B(0, 1 + \epsilon))}{\lambda(B(0, \epsilon))} = \left( \frac{1 + \epsilon}{\epsilon} \right)^n = \left( 1 + \frac{1}{\epsilon} \right)^n \le \left( \frac{3}{2\epsilon} \right)^n. }
あとは, 2\epsilon \mapsto \epsilon と取りかえた上で,Lem. 6 の双対性を用いれば, \left( \frac{1}{\epsilon} \right)^n \le N(B_2^n, \| \cdot \|, \epsilon) を得る.

図 2 は, \epsilon-net の点を打ったものである.小さい円の面積の総和は,青い円 (半径  1) の面積以上である.そこで,
 \displaystyle{ \lambda(B_2^n) \le \lambda \left( \bigcup_{t \in N} B(t, \epsilon) \right) \le \sum_{t \in N} \lambda (B(t, \epsilon)) .}
から,
 \displaystyle{ |N| \ge \frac{\lambda(B_2^n)}{\lambda (B(0, \epsilon))} = \left( \frac{1}{\epsilon} \right)^n }
を得る.(証明終)

この補題により,作用素ノルムの期待値の評価を得ることができる.まず, N_1, N_2 がそれぞれ  B_2^n, B_2^m \epsilon-net であるとき,  N_1 \times N_2 は (先述した距離のもとで)  T = B_2^n \times B_2^m 2\epsilon-net である.したがって,
 \displaystyle{ N(T, d, 2\epsilon) \le N(B_2^n, \| \cdot \|, \epsilon) N(B_2^m, \| \cdot \|, \epsilon) \le \left( \frac{3}{\epsilon} \right)^{n + m} }
である.定数倍を無視することで,
 \displaystyle{ \mathbb{E} [ \| M \| ] \lesssim \sigma \sqrt{n + m} }
を得る.これが所期の不等式評価である.行列ノルムのオーダーが  \sqrt{nm} ではなく  \sqrt{n + m} であることは非自明であり,興味深い.

Rmk.
上記は, \sup の期待値評価の一つの手法ではあるが,確率過程の Lipschitz 性や  T のコンパクト性に強く依拠している.実際,covering number が多項式オーダーであることは,添字集合が Euclid 空間の構造を持つことに由来する幸運であると言える.

また,Lem. 4 の評価は,ある意味で悲観的すぎて loose である.Covering number が指数オーダーで増加するような問題設定では,そのために,Lem. 4 の不等式が tight にならないことがある (van Handel [1] を参照).その場合,net argument を利用しない別の手法が必要となる.

参考文献

[1] R. van Handel (2016), Probability in High Dimension. APC 550 Lecture Notes (https://web.math.princeton.edu/~rvan/APC550.pdf).

「ら抜き言葉」の極北

いわゆる「ら抜き言葉」は,「日本語の乱れ」の代表例である.「ら抜き言葉」を肯定的に捉える人も多く,その理由として「ら抜きによって可能と受動・自発を区別できる」が挙げられる.

ところが最近は,受動・自発でも「ら」を抜く用法が一部で見られる.個人的にもっともよく見かけるのは「憚れる」である.次によく見るのは (受け身の意味での)「断れる」だと思う.どちらも,

  • 可能を表すのならば「れる」で正しいが,文脈上,自発か受動を表している.
    • したがって,辞書的には,本来「られる」をつけるべきである.
  • 語幹が 3 文字である.

という特徴を持つ.

思うに,語幹が 3 文字と多いところに「られる」をつけると大変まどろっこしいので,「ら」を抜いているのだろう.気持ちは分かる.

こうした用法は,まだ一般化していないが,使っている人は一定数確実にいる.このことは Twitter で検索してみると分かる.特に「憚る」は可能の意味で使うことが皆無なので,「憚れる」で検索してヒットするのは,ほぼ全て「ら抜き言葉」である.

 

これは,形式的には「ら抜き言葉」だが,実際はそれと逆の結果を招く.可能で「れる」を使う古典的「ら抜き言葉」では,可能と受動・自発で用いる助動詞を変えることで,文脈に依存せず意味を表せるようにしていた.ところが,「憚る」「断る」は五段活用動詞なのだから,受動・自発で「れる」を使えば,可能と見分けがつかなくなる.

 

以下は特に根拠のない想像だが,一部の日本語話者は,別に可能と受動・自発を区別したいと思って「ら抜き言葉」を使っているのではないだろう.「られる」がまどろっこしいし,違和感があるから,なんとなく縮めているだけである.

仮にこうした用法が広まれば,「食べる」「寝る」のような上一段 / 下一段活用動詞でも「られる」が消滅してもおかしくない.そうなると,「可能と受動・自発を区別できる」という「ら抜き言葉」のメリットは失われて,この区別の意味で,「ら抜き言葉」以前と同じ状況が復活するだろう.

その場合,数世紀後の日本語研究者にとって,わたしたちの時代,つまり可能の用法でのみ「ら抜き言葉」を使っていた時代は,(上一段 / 下一段 / ラ行五段活用動詞でも) 可能と受動・自発が区別されていた稀有な数十年間に見えるはずである.

 

以上の話を友人にしたところ,「ただの誤字じゃないかな」とのコメントを受けた.ただの誤字かもしれない.

「人間宣言」の成立について

はじめに

本記事では,1946年1月1日に渙発された「新日本建設に関する詔書」(いわゆる人間宣言.以下,単に詔書とも呼ぶ)の成立過程について考察する.

詔書の成立には未だ不明な点も多く,研究書や論文の間で一致しない主張も散見される.本記事では,成立過程のうち概ね正しいと考えられる部分を整理するとともに,研究者間での異同について簡単に述べる.その上で,GHQ,首相,文相,宮中といったアクターが詔書に及ぼした影響を論じ,GHQがはじめに意図した,天皇の神性否定という詔書の役割が,成立過程で変質したことを説明する.

以下の文章はもともと,前学期に履修した科目の期末レポートとして執筆したものである.文字数制限があったために,提出にあたっては内容をかなり削る必要があった.個人的にたいへん興味があるテーマだっただけに,文字を削るのは至難であり,文章を尽くせないのは残念だった*1.そこでこの際,削る前の文章を個人的に公開しようと考え,記事としている.

詔書の成立過程

詔書渙発の背景とCIE案

終戦後,GHQ民間情報教育局(CIE)において教育・思想政策を担当することになるハロルド・ヘンダーソンは,国家神道が「膨張する戦争を正当化するために、軍国主義者や超国家主義者によって使われてきた」との観点に立ち,こうした思想・宗教的背景の除去を目指した*2.1945年12月には国家神道の廃止や政教分離を謳う神道指令がGHQより発せられた.「人間宣言」は,当初,神道指令に連なる思想的政策の一貫として構想されたものである.

CIE局長のケン・R・ダイクによる12月3日付の文書「神道指令のスタッフ・スタディ」では,上述した意図のもと天皇勅語を公布すべきこと,勅語の内容は,天皇や日本人などが他国に優越しているという観念を否定し,人権的平等と人類共通の関心を尊重するものであるべきこと,が勧告された*3.ここからは,GHQ側が,神道指令と相互補完的な詔書によって天皇の神格を否定し,超国家主義イデオロギーを除こうとしていたことが読み取れる.

ヘンダーソンは,CIE課長として学習院講師のレジナルド・ブライス接触した.12月はじめには,ブライスに「人間宣言」の構想を伝え,自らの草案を提示した.ここで提示された草案をもとに,ブライスヘンダーソンが共同で詔書案を執筆した.こうして初めに書き上げられた詔書案はCIE案と呼ばれる.学習院に保管されているCIE案(英文および和訳)は6段落からなるもので,「人類愛」「人類に対する忠節」を強調するとともに,「日本人は神の子孫であり、他の国民より優れ、他を支配する運命を有すという誤れる観念」を否定している*4.また,別紙において,天皇が自ら個人の神格化(deification)も神話化(mythologizing)も強く否定する,と補足されている.

日本側へのCIE案の提示

ところで,実際に渙発された詔書は,先述したCIE案とは大きく異なっている.以下では,日本側が詔書案を作成して過程を詳しく論じ,その中で生じた変化について述べる.

CIE案は,12月15日にブライスから学習院院長の山梨勝之進へ伝えられた.翌16日には山梨を経て学習院事務官の浅野長光にCIE案が渡り,同案の和訳が作成された.先述した,学習院に保管されているCIE案は,このとき浅野が作成したものとその原文である.

こうして学習院に渡ったCIE案がどのように内閣および宮中に届けられたかには,不明な点が残る.大原康男によれば,まず山梨から宮内省高官(石渡荘太郎宮内大臣か,松平慶民宗秩寮総裁のどちらかであるとする)へ同案が届けられ,「このような詔書の発布は、本来は宮内省ではなく、政府の所管するところである」から,山梨が吉田茂外相へ同案を手交し,吉田から幣原喜重郎首相に伝わった,という流れである*5.すなわち,宮内省と内閣へCIE案がパラレルに提示され,以降は内閣(正確には,幣原首相および前田多門文相のみ)が起草を主導したとする.

一方で,松尾尊兊は,16日に山梨と浅野が宮内省GHQの意向を伝えるとともにCIE案を示し,「12月19日、宮内省案(天皇の意思で「五カ条の御誓文」が付加された)が浅野に渡され、翌20日、政府とGHQに届けられた。24日、幣原首相は天皇に会い、詔書は政府の責任で作成することを取り決めた」とする*6.すなわち,山梨から宮内省へ,宮内省から内閣へ,という順序であるとされている.松尾による以上の記述は,概ね大原論文を元にしているが,浅野の証言*7を取り入れている.

ここで,「宮内省案」がどのようなものであったかは判然としない.大原論文には宮内省案の存在が見えず,その存在は浅野の証言に基づいていると思量される(同証言は,大原論文の後に報道されている).ともかく,21日の時点で幣原ら内閣側に起草の主導権が渡っていたこと,五箇条の御誓文を盛り込む(宮内省)案は,仮にあったとすればどこかで一度握り潰されていること,は言えよう.

内閣における起草

CIE案(あるいは宮内省案)を受けた幣原は,23日に文部大臣の前田多門にそれを示し,和文詔書を起草するよう依頼した*8.前田は依頼を受け,内閣書記官長の次田大三郎と協力して詔書案を執筆した.ところで,これと前後して,幣原自身によって詔書案(初めに英語で執筆し,それを和訳した)が書き上げられている.通説では,これを前田による草案に基づいて書いたものとするが,前田案とは並行して書かれたもので,後に前田と突き合わせたものだとする説もある*9.いずれにせよ,最終的に閣議へかけられた案は,前田と幣原の両者が手を入れていると見てよい.

なお,侍従次長の木下道雄は,自らの日誌に25日付で「Macの方では内閣の手を経ることを希望せぬ様だ。これは一つには外界に洩れるのを恐れる為ならん」と書いている*10.上述の通りこの段階では主に内閣側の幣原・前田・次田が草案を作っているが,幣原が前田に秘密の厳守を求めている*11ことからも,これら限られた人間を除いて内閣は関与していないと言える.河西秀哉は,マッカーサーが機密性にこだわった理由を,「[引用者注:詔書が]あくまで天皇による自発的意思であることを内外に示す」ことにあったと推論している*12

この後,幣原が肺炎にかかったため,前田が上奏して天皇に草案を見せた.『昭和天皇実録』によれば,これは29日のことである*13.前田の回想では,このときに天皇から五箇条の御誓文を挿入するよう求められた*14.これに基づけば,23日に前田が起草を依頼されたとき,提示された案に五箇条の御誓文はなかったことになる.すなわち,「宮内省案」は前田に渡っていない.このことを考慮すれば,宮内省案については,浅野以後・前田以前(吉田ないし幣原)で握り潰されたか,浅野の記憶違いであるか,のどちらかである可能性が高いと筆者は考える.また,このことから,21日以前に天皇詔書に介入しなかった(あるいは,しても黙殺された)が,29日に前田へ御誓文の挿入を求め,この段階では影響力を発揮した,と推論できる.

のちに昭和天皇自身が「それが実はあの時の詔勅の一番の目的なんです。神格とかそういうことは二の問題であった」「『五箇条御誓文』を発して、それがもととなって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入のものではないということを示す必要が大いにあった」と述べている*15ことからも,御誓文については昭和天皇の強いイニシアティブが発揮されたと言える.

宮中の介入

幣原の起草した英文草案は,憲政資料室が保管する原稿*16によれば,CIE案から文言や段落構成などが大きく変わっている.幣原草案の第3段落は"n Japan, love of the family and love of the country have always been markedly strong. With no less devotion should we now work towards love of mankind" であり,家族や国家に対する愛を人類愛まで高めるべきだ,という趣旨はCIE案と共通する部分がある.しかし,「人類に対する忠節は、国家への忠節の上に行くものである」とするCIE案の第3, 4段落は落とされている.松尾尊兊はこの変更について,「③の部分[引用者注:人類愛を謳う段落]との重複を避けたのかも知れぬが、国家すなわち天皇への忠節を否定するものと解して、わざとこの節を落とした公算が大きい」とする*17

そして,天皇の神格否定に関する部分(第4段落)では,"……They [筆者注 : the ties between Us and our people を指す] are not predicated on the false conception often ascribed to the Japanese that we are of divine descent, superior to other peoples and destined to rule the world." と述べられており,CIE案と同様である.幣原草案では,否定される "the false conception" として,日本人を神の末裔とするもののみが挙げられており,天皇の神格には言及されていないことに注目したい.

さて,29日に前田から天皇へ示された草案は,幣原草案が元になっていると考えられるが,重要な差異がある.侍従次長の木下は,29日に前田文相から示された草案に対する不満を日誌に残している.

2時、前田文部大臣と面談(詔書案について)。

(中略)

詔書案中気に入らぬことは沢山ある。殊に文体が英語(幣原首相の筆になる)の翻訳であるから徹頭徹尾気に入らぬ。

最も彼我の間に要点となれる一項、即ち原案に依れば、

朕と我国民との間の紐帯は終始相互の信頼と愛情に依りて結はれ来たる特性を有す。此の紐帯は単なる伝説と神話に依るに非す。日本人を以て(これをMac自身はEmperorと書き改めた)神の裔なりとし他の民族に優越し世界を支配すへき運命を有すとの屡々日本人の責に期せしめられたる[下線は原文](これは学習院ブライスの原文に首相が加入せる文句)架空なる観念に依り(false conception)説明(predicated)せらるるものにも非す

と云う所である。日本人が神の裔なることを架空と云うは未だ許すべきも、Emperorを神の裔とすることを架空とすることは断じて許し難い。*18

木下が前田と面談した際に提示されたとする詔書案は,「文体が英語の翻訳」であることや,語句の一致(false conception, predicated, 屡々日本人の責に期せしめられたる : often ascribed to the Japanese)などを見るに,幣原英文草案を下敷きにしたものであろう.しかし,「日本人を以て(これをMac自身はEmperorと書き改めた)神の裔なりとし」という部分からは,天皇が神の末裔であることを否定するよう,マッカーサーによって文言が変更されたことが分かる.幣原草案と対比することで,幣原・前田の起草以降,天皇へそれが示される前の段階(おそらく27, 8日あたりであろう)でマッカーサーが介入したと推察できる.

木下は,天皇が神の末裔であることを否定することを避けるため,「朕を以て現神と」することを否定する文案を作成した*19.この変更は,紆余曲折*20を経て,「天皇を以て現御神と」することを否定する形で,最終的な詔書に反映された.その他のいくつかの点についても木下は修正を求めて交渉したが,幣原が「Macとの信義」を理由として反対したため通らなかった.

なお,幣原草案には "……our people are liable to grow restless and to fall into the Slough of Despond. The sense of morality tends to be lose its hold on them" と道徳の衰えを懸念する文言こそ見られるが,最終的な詔書における「詭激の風漸く長じて」「思想混乱の兆」のような,直接に思想的混乱を指した語句は現れていない.「危険思想(主に共産主義思想)」に対する昭和天皇の忌避感を考慮すれば,天皇自身や側近が上奏時にこれらの文言を付するよう求めたとしても決して不自然ではないだろう.ただし,天皇や側近からこうした要求があったという形跡は,前田の回想や木下の日誌には見られない.特に,前田は御誓文の挿入を指して「内容的の事柄について、天皇が発言せられたのはそれだけであった」としている*21.他方,幣原草案以降に文言が変更され得たタイミングとしては,上奏時の他にはマッカーサーGHQ側の要求または閣議での文案修正しか考えられず,消去法的に天皇の介入を類推することもできる.いずれにせよ断言は難しく,「思想混乱の兆」のような語句が,天皇や側近の要求で付け加えられた可能性を指摘するに留めたい.

こうして最終的に渙発された詔書は,冒頭に五箇条の御誓文を掲げて明治天皇の「御趣旨」を高揚するとともに,天皇が現御神であることを否定するものの神の末裔であることは否定せず,「詭激の風」「思想混乱」を懸念するものであった.CIEが当初意図していた神格の否定は部分的に達成されたものの,「人類に対する忠節」といったCIE案のコンセプトは除かれた.松尾尊兊はこの「換骨奪胎」を評して「新たなる『人間の天皇宣言』」と述べている*22.なお,詔書とともに幣原が発表した謹話では,御誓文を強調して天皇の神格に言及していない一方,マッカーサー天皇が「民主化に指導的役割を果たさんとしている」と述べていることは,日米両側の人間宣言に対する姿勢の違いを端的に表していると言える.

おわりに

以上,基本文献と史料をもとに「人間宣言」成立の過程を追った.本記事で述べたことを今一度まとめると,以下のようになる:GHQ(の部局であるCIE)の主導で詔書の構想が始まり,最初の草案がヘンダーソンらにより書かれた.これは山梨・浅野を経て宮内省および内閣に渡り,この段階では天皇宮内省が介入を果たせなかった.幣原と前田がCIE案を元に詔書案を起草した.前田が上奏した段階で天皇が介入し,五箇条の御誓文が挿入された.また,どこかの時点で「思想混乱」への懸念が付け加えられたほか,天皇の神格についてマッカーサーが介入したことに側近が抵抗した.こうした全体の流れのなかで,詔書の意図や,細かいが重要な文言が頻繁に変更された.

*1:文字数がオーバーするのは題材選択が不適当だからだ,と言われると,ぐうの音も出ない.

*2:升味準之輔昭和天皇とその時代』山川出版社,1998年,56ページ.

*3:松尾尊兊『戦後日本への出発』岩波書店,2002年,62ページ.

*4:毎日新聞,2006年1月4日朝刊(東京版),戦後60年の原点:シリーズ・あの日を今に問う 天皇人間宣言』.

*5:大原康男神道指令の研究』原書房,1993年,97--98ページ.

*6:前掲,松尾『戦後日本への出発』,63ページ.

*7:読売新聞,1988年9月29日朝刊(東京版),「人間宣言の五箇条御誓文 陛下の強いご意思」

*8:前田多門「『人間宣言』のうちそと」,『文藝春秋』1962年3月号.

*9:佐々木高雄「『人間宣言』の成立経緯について」,青山学院大学法学会編『青山法学論集』,第53巻第3号,2011年12月,1--55ページ.

*10:木下道雄著,高橋紘解説『側近日誌』文藝春秋,1990年,12月25日項,86ページ.

*11:前掲,前田「『人間宣言』のうちそと」.

*12:河西秀哉『「象徴天皇」の戦後史』講談社,2010年,45ページ.

*13:宮内庁書陵部編『昭和天皇実録』,巻34 昭和20年下,12月29日項,192ページ.

*14:前掲,前田「『人間宣言』のうちそと」.

*15:高橋紘『陛下、お尋ね申し上げます』,1998年,252ページ.

*16:憲政資料室保管資料「幣原平和文庫」,マイクロフィルム リール7 [213--219].

*17:前掲,松尾『戦後日本への出発』,69ページ.

*18:前掲,木下『側近日誌』,89--90ページ.

*19:前掲,木下『側近日誌』,90ページ.

*20:一度はこの文案が前田に受け入れられるも,行き違いにより閣議には原案が提出された.

*21:前掲,前田「『人間宣言』のうちそと」.

*22:前掲,松尾『戦後日本への出発』,71ページ.

2022 年を振り返って

学業

とにかく課業に追われた一年間だった.S セメスターには代数・Lebesgue 積分論・複素解析・確率が,A セメスターには幾何・アルゴリズムがそれぞれあって,更に毎週 5 コマの演習が入っていた.これに加えて実験があったり,数学以外の講義もあったりで,特に 6 ~ 7 月は疲弊していた (気がする).しかし,おかげでかなり力はついた.長年やろうやろうと思いながら先送りにしてきたこと (具体的には,Lebesgue 積分論と測度論的確率論) をきちんと学べたのは有意義だった.

課外では,数理最適化や PQC の自主ゼミをした.加えて,集合・位相,多様体,応用線形代数,深層学習あたりを個人的に勉強していた.

趣味

広義神田に足繁く通うようになった.特に神保町近辺の雰囲気が好きで,よく行っている.

山に登りはじめた.とはいっても本格的な登山ではなく,ハイキングと登山の中間くらいのレベルだが…….帰省した際,母校の教員と会って登山の話をしたら,「エンジニアは山に登りがち」と言われた.分かる.

お酒は相変わらず飲んでいるが,去年よりは頻度が落ちた気がする.

そのほか

  • ゲームを全然しなくなった.する時間がないのと,買うお金がないのと,よしんば条件が揃ったとしても楽しむ体力がないのとが原因だと思う.
  • 大学へ (物理的に) 行くことが去年より増えた.これと関連して,家から出ることが増えた.
  • いままでに比べて,日本中のいろんなところに行った一年間だったと思う.九州に初上陸した.
  • 情報処理安全確保支援士試験に合格した.登録は現時点でしていないし,しばらくするつもりもない.
  • そろそろ将来のことを真剣に考えなければならない時期になった.頭が痛い.

読書

2022 年中に夏目漱石の長編を全部読もうという謎の決意を固めて,実際全部読んだ.面白かった.とはいえ,深い読み方ができたとは思えないが…….

印象に残った本:

  • 『「知」の欺瞞』は,帰省中に飛行機の中で読んだ.有名な本なので今更という感じはするが.とても面白かった.
  • 駒木明義『安倍 VS. プーチン』は,北方領土をめぐる日露交渉を綿密に追い,その問題点を明らかにしている.内容がたいへん充実していた.
  • 罪と罰』は何度目かの再読で,ゴールデンウィーク中に読んだ記憶がある.
  • 『国民の天皇』は,主に戦後の天皇のあり方を詳細に描いている.かねてから昭和天皇という人物に強い興味があったが,主に戦前から主権回復前までの期間ばかり追っており,戦後,とくに国民との繋がりで昭和天皇を見たことはあまりなかった.そうした中でこの本を読んだが,非常に興味深く,昭和戦後史への興味をかきたてられる一冊だった.
  • 岡義武『近衛文麿』は去年か一昨年も読んだ気がするが,何度読んでも面白い.近衛をやや軟弱に書きすぎているきらいはあると思う.
  • オーウェル評論集』は,有名な短編である『絞首刑』『象を撃つ』のほか,書評や文芸評論が収録されている.英文学に疎いため文芸評論はうまくのみこめなかったが,その他は面白く読めた.

 

今年読んだ本:

大正期貴族院の数理的分析

はじめに

大正時代は近代日本における議会政治の円熟期であった.明治維新に功ある元老の影響力が減少した一方,政友会・憲政党 (同志会) をはじめとする政党勢力が台頭した.初の本格的政党内閣を率いた原敬が活躍したのもこの時代である.

大正期の政治に大きな役割を果たしたのは主に衆議院であったが,一方の貴族院が時流と完全に無関係であったわけではない.貴族院は,時には政党と対抗し,時には政党と妥協しつつ,議会政治に一定の役割を果たしてきた.

さて,戦前の議会の特徴として,(乱暴な言い方をすれば) 議員間の結束度が現代より弱かったことがよく挙げられる.特に貴族院には政党・党派が (公式には) 存在せず,議員間のつながりは衆議院以上に曖昧であると言われる.

一方で,貴族院議員が完全に独立して,めいめい好き勝手に動いていたわけでもない.研究会をはじめとする院内会派も存在し,ゆるやかながらも一定の議員コミュニティが形成されていたと言ってよい.そして,それらのコミュニティが,政治において大きな役割を果たしたことも確かである.原内閣が研究会と提携したことで,政友会の主導する法案が貴族院で可決されるようになったことは,その好例だろう.

この記事の目的は,貴族院内の関係性を数理的に分析することで,院内のマクロな勢力構造についての手がかりを得ることである.具体的には,貴族院議員の記名投票行動に着目し,議員同士のネットワークを作成した上で,そのネットワークに対してコミュニティ分析を行なう.

先に述べておくと,分析の結果は以下のようにまとめられる.

  • 大きく分けると院内には 4 つのグループがあり,それらは衆議院での対立構造をある程度反映していた.
  • 少なくとも投票行動に限れば,貴族院議員には強固な連携が見られた.
  • 官僚出身の勅選議員が高い媒介中心性を持ち,「ハブ」として機能していた.一方で,「ハブ」的な議員の数は多くはなく,コミュニティ間の繋がりは希薄だった.

総じて,貴族院においても強い党派性があり,政党政治がある意味で定着しつつあったことが結論された.

(注記 : この記事ははじめ 2022 年 12 月に公開した.諸事情により一時期ひっこめていたが,2023 年 9 月に再び公開した.)

手法

まず,帝国議会会議録検索システムで公開されている大正期の貴族院議事速記録の中から記名投票の結果を抜き出してテキスト化する.対象とする速記録中に,記名投票は 30 回あった.

こうして得たデータをもとに,議員のリストを作成する.簡単のために,それぞれの議員に ID を振る. b_i を,議員  i が記名投票に参加した回数とする (すなわち, 0 \le b_i \le 30) .議員ペア  (i, j) k 回目の投票における一致度を, i j が異なる投票をしている場合  0 とし,同じ投票をしている場合,

( i, j と同じ投票をした議員の総数) / (その回に投票した議員の総数)

と定める.ペア  (i, j) の一致度を全ての投票について足し上げて  b_j で割ったものを, (i, j) の一致度とする (これは一般に対称ではないことに注意) .

各議員を頂点とするグラフにおいて, (i, j) の一致度が  1.6 以上ならば  i から  j へ辺を張る.これを全ての  (i, j) の組について行なう.

以上によってグラフが構成できるので,あとはためつすがめつしてごちゃごちゃ言う.

コミュニティの分析

R の igraph を用いてグラフを読み込み,非連結成分を除いた上で Spinglass 法によってコミュニティを検出し,プロットしてみる.結果は下図のようになった (画像サイズが大きいので注意) .

貴族院議員の投票行動に基づくネットワーク


一見して,緑・青・黄色・オレンジの 4 コミュニティがあり,更に水色・薄黄色の小さなコミュニティがあることが分かる.

それぞれのコミュニティについて,少し立ち入って調べてみよう.

緑色のコミュニティ

緑色のコミュニティには,水野直,青木信光,千家尊福,板倉勝憲,大浦兼一 (兼武の子) などが属する.このコミュニティは,基本的には研究会系である.研究会は原内閣と提携するのだが,その閣僚だった高橋是清山本達雄はここには含まれていない.なお,山縣伊三郎 (有朋の子) が含まれることは注目に値するかもしれない.

画家として有名な黒田清輝,医学者として知られる北里柴三郎もここに入っている.(私は黒田と北里が貴族院議員だったことを今回初めて知った)

なお,コミュニティの人数は緑色が最大 (195 人) であった.研究会の勢力の強さが伺える.

黄色のコミュニティ

黄色のコミュニティでまず目につくのは,高橋是清山本達雄,水野錬太郎といった大物政治家である.高橋と山本は政友会員かつ原内閣の閣僚であり,高橋の隣にいる阿部浩や古賀廉造は原の引き立てで栄達した (とされている) 人物である.他にも,安楽兼道,岡野敬次郎,松岡康毅,石渡敏一など,親政友会の人物はほとんどこのコミュニティに所属している.貴族院における政友会派の結束の強さが表れている.

見逃せないのは,大正末期から昭和初期にかけて枢密院議長を務める倉富勇三郎がこのコミュニティにいることである.倉富は司法官僚出身で,政党勢力へのスタンスは否定的だったとされている.しかし,昭和金融恐慌に際しては,若槻内閣の緊急勅令案を否決した上で田中内閣に同情的な動きをしている.親政友会コミュニティに倉富がいるのは,こうした政友会寄りの姿勢の裏付けでもあると言える.

加えて,個人的に気になったのが,後藤新平もこのコミュニティにいることである.後藤は桂太郎に重用されて名を馳せたこともあり,どちらかといえば憲政党寄りの人物だと思っていたが,投票行動は政友会に近い.大正期の第二次山本内閣で後藤は政友会員と共に閣僚となっていることから,両者の関係は必ずしも敵対的なものではなかったのかもしれない.

青色のコミュニティ

グラフの中で屈指のごちゃごちゃ感を放つのが青色のコミュニティである.これはこのグループが結束していたからというより,グラフプロットアルゴリズムの都合である.そもそもこの規模のグラフをきれいにプロットすること自体容易ではないので,ある程度は仕方ない.

このグループの有名人は,加藤高明若槻礼次郎,中島久万吉,松方巌 (正義の子),井上準之助阪谷芳郎,木越安綱などだろう.内田正敏,山内長人,平野長祥といった名前もあり,反政友会・反研究会・親憲政党の色が強い.加えて,このコミュニティには男爵議員が多い.

このコミュニティは反政友会・反研究会であるが,人的な繋がりでは,親政友会のコミュニティ (黄色) と隣接している.研究会のコミュニティ (緑色) よりは政友会の方にまだ近かったと言える.

オレンジ色のコミュニティ

もっとも掴みどころがないと感じたのが,このオレンジ色のコミュニティである.ここには,田健治郎,石黒忠悳,一木喜徳郎,有地品之允などが含まれる.完全に印象論になるが (これまでもそうだったと言われればその通りだが……),枢密顧問官との重なりが多いように思われる.党派性は無色に近いと言ったところか.

緑・オレンジ・青の各コミュニティがそれぞれ党派を表していたことから,中道的なオレンジ色のコミュニティがそれらの間に入ってもよさそうなものだが,そうではなかった.

 

全体として見ると,衆議院における政党勢力 (政友会・憲政党) に加え,貴族院の一大勢力である研究会,そしてこれらのいずれにも属さない比較的少数の議員,という 4 つの勢力にグラフを分割できた.この事実は,政党の対立が貴族院にも持ち込まれていることを示していると言える.同時に,研究会が必ずしも親政友会一辺倒でなかったことも示唆している.先述の通り,研究会は原内閣と提携することになるのだが,それは政友会との一体化ではなかった.

更に,各コミュニティの内部では,かなり強固な結束が見られた.詳細は省くが,エッジを張る条件をかなり厳しくしたグラフにおいても,同様のコミュニティが形成されていた.この当時の貴族院では決議拘束主義 (党議拘束) を取る会派がいくつかあり,ある程度は当然の結果と言えるのだが,政党政治の定着を示す現象だろう.

中心性

グラフの各ノードの「重要性」を示す指標として,中心性と名の付くものがいくつかある.

その一つが媒介中心性である.あるノードが他の 2 ノード間の最短路中に含まれている度合いを定量化するのが媒介中心性である.大雑把にいえば,異なるコミュニティ同士をつなぐ「ハブ」のようなノードほど,媒介中心性が高い.

媒介中心性の高い順に議員を列挙すると,以下のようになった.カッコ内は大まかな属性や前職である.

  1. 山脇玄 (司法官僚)
  2. 海江田準一郎 (実業家)
  3. 由雄元太郎 (実業家)
  4. 鮫島武之助 (外務官僚)
  5. 伊沢多喜男 (内務官僚)
  6. 福原鐐二郎 (文部官僚)
  7. 和田彦次郎 (農商務官僚)
  8. 高田早苗 (教育家)
  9. 松岡康毅 (司法官僚)
  10. 加藤恒忠 (外務官僚)

実に 10 人中 7 人が官僚出身者である.官僚出身者は基本的に内閣の奏薦を経て勅選されることで貴族院議員となる.勅選議員は華族議員に比べて人数が少なかったのだが,媒介中心性の意味での影響力は非常に強かったことが伺える.更にいえば,勅選議員には財界人,学者,軍人などの出身もいたのだが,それらに比べて官僚出身者の影響力は際立っている.

 

中心性の指標としては,他に,次数中心性がある.これは単純に各ノードの次数を正規化したものである.次数中心性の高い順に議員を列挙すると,以下のようになった.

  1. 伊藤伝兵衛 (実業家)
  2. 荒川義太郎 (内務官僚)
  3. 千家尊福 (宗教家)
  4. 伊沢多喜男 (内務官僚)
  5. 二条正麿 (華族)
  6. 高谷豊之助 (実業家)
  7. 阪谷芳郎 (大蔵官僚)
  8. 千秋季隆 (宗教家)
  9. 藤村義朗 (実業家)
  10. 坂本俊篤 (海軍軍人)

こちらは男爵議員が多く,加えて,青色のコミュニティ (親憲政党) に所属していた議員が多い.端的には,親憲政党グループ (公正会) の結束の強さを表していると考えられる.

 

どういう嬉しさがあるのかよくわからないが,ついでに PageRank も計算してみた.PageRank は隣接行列の固有値に基づく中心性を表す.

  1. 松方巌
  2. 安川敬一郎
  3. 伊藤雋吉
  4. 伏見宣足
  5. 得能通昌
  6. 田中芳男
  7. 小池正直
  8. 中島治兵衛
  9. 浜口吉右衛門
  10. 高谷豊之助

(松方巌を除いて知っている名前がない…….)

 

なお,媒介中心性・次数中心性・PageRank のそれぞれで上位の議員にオーバーラップがほとんどないことに注意したい.議員と議員,グループとグループをつなぐ媒介中心性の高い議員と,集団的投票の中心に位置する次数中心性の高い議員は,互いに異なっていたことが分かる.

関連して,媒介中心性の分布は,次数分布に比べて大きく偏っていたことを指摘しておく.コミュニティ内では結束するので多くの議員は高い次数を持つが,コミュニティ間の繋がりが希薄だから「ハブ」的な議員が少ない,という結論がここから導かれる.官僚や華族の牙城,超然的な良識の府という印象の強い貴族院だが,大正期には党派の分化と結集が進み,政党政治が定着していたと言っていいのではないか.

おわりに

この記事では,大正期の貴族院について,投票行動をもとにグラフを作成し,数理的手法によって分析を加えた.

貴族院については日本史学における素晴らしい研究の蓄積がある.そのため,この記事で述べたことのほとんどは,過去に繰り返し指摘されてきた事実だろう.反面,そうした過去の研究は,私の知る限り,ミクロ的な (議員個人や会派に限定した) ものが大半だった.もう少しマクロ的な,全体像を見るための手法を考えたかった,というのがこの記事の動機である.その意味で,マクロ的な検討から,ミクロ的な観察と同じ結果が導かれたとしても,無意義ではないと考えている.

最後に,この記事で取った手法の課題を述べておきたい.まず,記名投票行動をベースにしたグラフが,院内の勢力を正確に再現できるとは限らない.議会が議決のための機関である以上,大きく的を外しているわけでもないだろうが,匿名投票や質疑に現れる関係性も考慮することが望ましいだろう.とはいえ,ある程度の量を確保でき,かつ明確に定量化できるデータとして,記名投票の結果くらいしか利用できなかった,というのが正直なところである.

さらに,グラフの作り方には相当な恣意性がある.辺を張る条件を「一致度が  1.6 以上であること」としたが,この  1.6 という数値の選び方に論理的な根拠があるかと言われると厳しい.加えて,議員間の縁戚関係を考慮する必要もあるだろうし (たとえば襲爵した華族議員の振る舞いは父親のそれと関係するはずである),明治期・昭和期の投票行動もデータとして使うべきだろう (貴族院でのキャリアが大正時代に収まる議員はほとんどいない).記名投票の対象となる審議も,議会内での細かい決め事から,予算や重要法案といった重要論点まで様々であり,重要度に応じて投票を重み付けすることも考えられる.一方で,こうして多くの情報を考慮すればするほど,結局は細かい歴史的事実に着目する必要が高まり,ミクロ的手法とマクロ的手法の悪いところ取りに陥ってしまうという危惧もないではない.

東京で理工系書籍を扱っている書店のまとめ

早いもので東京へ引っ越して 1 年半になる.基本的には毎日ひきこもっているので土地勘は大して養われていないが,大学生ということもあり書店にはしばしば通うようになった.

東京には無数の書店がある.とはいえ,理工系の書籍 (特に洋書) をしっかり扱っている店はそう多くない.この記事では,自分が知っている範囲で,理工系の本が買える書店をまとめた.

専攻が数理工学なので,数学・情報科学の本がどの程度あるか,という観点に偏っていると思う.たとえば生物学・化学や建築学については手薄だと思うので,そのあたりを専攻している人にはあまり参考にならないかもしれない.

1. 大型書店

基本的に,大型書店へ行けば,刊行中の本はだいたい手に入る.本を買うというだけならどこへ行っても大差がない (と思う) ので,アクセスしやすい店へ行けばいい.

丸善 丸の内本店

東京駅丸の内北口を出てすぐのところ (丸の内オアゾ内) にあり,理工系書籍は 3 階.東京駅はターミナル駅なので何かのついでにアクセスしやすく,個人的に大型書店の中では一番よく行く.品揃えも充実している.

圧巻は 4 階の洋書フロアで,壁一面に数学書が並んでいる.知る限りでは最も洋書の品揃えがよい.Springer の数学書を半額で売っている一角もあり,学生でも手の届く価格帯の本が多い.

ジュンク堂 池袋本店

JR 池袋駅の東口を出て少し歩けば着く.主観だが,理工系書籍 (和書) の品揃えは都内で一番だと思う.記憶が正しければ店舗全体で 9 階から地下 1 階まであり,最上階から順に降りていくと楽しい.洋書はそれほど置いていなかった.

紀伊國屋書店 新宿本店

東京メトロ新宿駅と直結した建物にある.新宿という街に漠然とした苦手意識があったのでしばらく訪れていなかった.店内がやや狭く,他の大型書店と比べると品揃えの点で若干見劣りする.新宿にあるのでアクセスは非常によく,東大生は本郷三丁目から一本で行ける.

Books Kinokuniya Tokyo

上述の紀伊國屋書店の系列で,洋書だけを扱っている.新宿駅の南側,タカシマヤタイムズスクエアの中にあり,代々木駅からも近い.1 フロアのみで,理工系は奥の方にまとめられている.品揃えは悪くないが,高度な専門書は多くないので,丸善の 4 階よりは少ないかも.とはいえ,都内で理工系洋書を置いている書店は ここと丸善しかなさそう (他の店をご存知の人がいたら教えてください) なので,貴重な店だと思う.

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上記以外にも大型書店はいくつかあり,どこもそれなりに理工書を扱っている.少なくとも,有名どころ (例えば,齋藤線型代数とか,赤雪江とか,松坂集合位相とか……) や,大学低学年向けに書かれた微積線形代数の教科書・演習書は,どの店にも一通り置いてあると思う.また,最近はどこもコンピュータ系の品揃えに力を入れており,隣接分野である数理最適化や確率論・統計学の本が増えてきているように感じる.

また,今年に入ってから,三省堂書店 神保町本店と八重洲ブックセンターが相次いで (一時) 閉店した.三省堂は改築,八重洲ブックセンターは移転のためらしい.どちらもいい書店なので,数年後生まれ変わった姿に期待したい.

2. 神保町

本の街として知られる神保町にも,理工系を扱う書店はいくつかある.

書泉グランデ

神保町駅を出て,靖国通りを東へ少し歩いたところにある.古書店の並ぶ場所にあるものの,新刊本を置いている.サイズ的には大型書店のカテゴリに入るが,一般向けというよりはマニア向けの書店で,フロアごとに「鉄道」「アイドル」「精神世界」などジャンルを絞った本が並ぶ.4 階が数学書のフロアになっている.数学グッズも売っている.

最上階にイベントスペースがあり,たまにセールを開催している.「訳あり本セール」として,各出版社の数学書や理工書を半額で売っていることがあり,大変助かる.

秋葉原に系列店の書泉ブックタワーがある.そちらは数学書の品揃えは申し訳程度だが,コンピュータ系書籍でまるごと 1 フロアを使っており,応用数学や数理工学をやっている人にとっては見応えがあると思う.

明倫館書店

神保町駅を出てすぐのところにある,理工系専門の古書店.大量の古書が所狭しと並べてあり,最初に入ったときは感動した.大まかに言って,1 階が理学 (数学・物理学など),地下 1 階が工学 (コンピュータ,電子工学など) のフロアになっている.

和書が多いが洋書もしっかり置いてあり,入ってすぐのところにある棚は洋書の数学書で埋め尽くされている.Springer の黄色い背表紙で埋まった棚は圧巻.だいたいの本はここで揃うので,何かしらの教科書が必要になったらとりあえずここへ行くようにしている.

村山書店

靖国通り沿い,書泉グランデの近くに位置する.理工系専門ではないが,数学・物理学の本がけっこう置いてある.シリーズものの数学書や学術文庫の品揃えが多いように思う.また,新しめで状態のよい本が比較的多く,店内も綺麗.神保町をうろついているときにふらっと入りやすい.

3. 東大付近

東大の中には書籍部が,外には学生街沿いの古書店がある.大型書店ほどの品揃えはないが,(学生にとって) アクセスしやすく,大学へ行ったついでに寄りやすい.

生協書籍部

駒場キャンパスと本郷キャンパスにはそれぞれ書籍部がある (柏キャンパスなどにも書店があるらしいが,行ったことがない……).駒場キャンパスでは駒場図書館の向かい,本郷キャンパスでは理学部 1 号館の裏 (第二食堂の下) にある.もちろん,東大に所属していない人でも入れる.

大学内の書店ということもあり,専門書の比率が高い.スペースの都合なのか,本郷よりも駒場の方が品揃えはよいと思う.レイアウトも駒場の方がすっきりしており,店内を見て回りやすい.とはいえ,本郷に通う身としては頻繁に駒場へ行けるわけでもないし,何より大抵の本は本郷でも揃う.全体的にいって,大型書店よりは少し劣るが,それでも相当なものだと思う.洋書も少し置いてある.

東大生協に入っていれば全ての書籍が 10 % 引きになる.これは本当にありがたいシステムで,特に高額な専門書を買うときに威力を発揮してくれる.また,特定の出版社の書籍が 15 % 引きになるセールをときどきやっており,以前は丸善出版東大出版会も対象になっていた.

なお,もちろんのこと東大以外の大学にも書籍部はあり,それぞれの学生に合わせた専門書を販売している.東工大の書籍部には入ったことがあるが,コンピュータ系の品揃えが充実していた記憶がある.

友隣社

赤門前にある,理工系洋書の専門店.オフィスビルの 3 階にあり,あまり小売店っぽい感じではない.店舗と同じスペースに事務所もあり,どちらかというと研究者や大学と直接取り引きするのがメインの会社かもしれない.

店は広くないが,数学系の洋書がたくさん置いてある.コンピュータサイエンスや物理学の本もそこそこあったように記憶している.

棚沢書店

正門前にある古書店で,理工系書籍を扱っている.本郷の古書店数学書をしっかり扱っている店は,知る限りではここだけだった.全体的に安価だと思う.一時期,店前に岩波数学講座がたくさん置いてあった.洋書も若干だが置いてある.理工系専門ではなく人文系の本もあり,岩波文庫がよく揃っていた.

おわりに

自分が知っている限りで,理工系 (特に数学系) の書籍を一定程度以上扱っている書店を紹介した.もとより東京という街に精通しているわけでもないので,他にいい店をご存知の人がいたらコメントで教えてほしい.

最近では通信販売専門の古書店も多く,実店舗にない本でもインターネットで探せば見つかることがある.特に洋書については,Amazon 経由で取り寄せるのが最も確実で簡単だということも多い.とはいえ実店舗ならではの良さももちろんあるので,両者をうまく使い分けられるようになりたい.

Fourier 解析と Poisson の和公式

はじめに

Fourier 級数展開や Fourier 変換には多くの応用がある.この記事では,小ネタとして,[1] より Poisson の和公式を紹介する.

ステートメントと証明

Thm. (Poisson の和公式)
実数値の急減衰関数  f の Fourier 変換を  \hat{f} としたとき,以下の公式が成立する.
 \displaystyle{ \sum_{n = -\infty}^\infty f(n) = \sqrt{2\pi} \sum_{m = -\infty}^\infty \hat{f} (2\pi  m) . }

pf.
 f は急減衰だから, g(x) \equiv \sum_{n = -\infty}^\infty f(x + n) \mathcal{C}^2 級かつ周期  1 の関数である.Dirichlet の定理より, g(x) の Fourier 級数展開は一様収束する. g(x) の Fourier 係数を  a_m と書くと, g(x) = \sum_{m = -\infty}^\infty a_m e^{2\pi i m x} である.さて,
 \displaystyle{a_m = \int_0^1 g(x) e^{-2\pi im x} dx = \int_0^1 \sum_{n = -\infty}^\infty f(x + n) e^{-2\pi i m x} dx }
だが, g(x) の Fourier 和の一様収束性から総和と積分を交換できる.すなわち,
 \displaystyle{ a_m = \sum_{n = -\infty}^\infty \int_0^1 f(x + n) e^{-2\pi i m x} dx. }
 y = x + n と変数変換すると,
 \displaystyle{ a_m = \sum_{n = -\infty}^\infty \int_n^{n + 1} f(y) e^{-2\pi i m y } dy = \int_{-\infty}^\infty f(y) e^{-2\pi i y} dy = \sqrt{2\pi} \hat{f} (2\pi m) }
を得る.したがって,
 \displaystyle{ g(0) = \sum_{n = -\infty}^\infty f(n) = \sqrt{2\pi} \sum_{m = -\infty}^\infty \hat{f} (2\pi m) . } (証明終)

例 1. Gaussian

テータ関数とは, t > 0 に対して
 \displaystyle{ \theta (t) = \sum_{n = -\infty}^\infty \exp (-\pi n^2 t) }
で定められる関数である. t \mapsto t^{-1} なる変数変換に関して,以下の等式が成り立つ.
Prop. (Jacobi の等式)
 \displaystyle{ \theta (t) = \frac{1}{\sqrt{t}} \theta \left( \frac{1}{t} \right) }.

この等式の証明に Poisson の和公式を利用できる.具体的には,Gaussian  g_t (x) = \exp (- \pi x^2 t) に対して Poisson の和公式を適用する. \hat{g_t} (\omega) = (2\pi t)^{-1/2} \exp (-\omega^2 / 4\pi t) より,
 \displaystyle{ \sum_{n = -\infty}^\infty \exp (-\pi n^2 t) = \sum_{m = -\infty}^\infty t^{-1/2} \exp (-(2\pi m)^2 / 4\pi t) = t^{-1/2} \sum_{m = -\infty}^\infty \exp ( -\pi m^2 / t) } .

例 2. 偶関数

 f が偶関数の場合に Poisson の和公式を用いると,数値解析において重要である Euler--Maclaurin の公式が導かれる.まず,若干テクニカルな変形から入ろう.
 \displaystyle{ \begin{equation*} \begin{split} 
2 \sum_{n = 0}^\infty f(n) &= f(0) + \sum_{n = -\infty}^\infty f(n) \\
&= f(0) + \sqrt{2\pi} \sum_{n = -\infty}^\infty \hat{f} (2\pi n) \\
&= f(0) + \sqrt{2\pi} \hat{f} (0) + \sqrt{2\pi} \sum_{n = 1}^\infty \left\{ \hat{f} (2\pi n) + \hat{f} (-2\pi n) \right\} \\
&= f(0) + 2\int_0^\infty f(x) dx + \sum_{n = 1}^\infty  \int_{-\infty}^\infty f(x) \left( e^{-2\pi i nx} + f(x) e^{2\pi i nx} \right) dx  \\
&= f(0) + 2\int_0^\infty f(x) dx + \sum_{n = 1}^\infty  \int_{-\infty}^\infty f(x) 2 \cos (2\pi n x) dx \\
&= f(0) + 2\int_0^\infty f(x) dx + 4\sum_{n = 1}^\infty  \int_0^\infty f(x) \cos (2\pi n x) dx .
\end{split} \end{equation*}
}
したがって,
 \displaystyle{ \sum_{n = 0}^\infty f(n) = \int_0^\infty f(x) dx + \frac{1}{2} f(0) + 2\sum_{n = 1}^\infty  \int_0^\infty f(x) \cos (2\pi n x) dx . }
さて,右辺に含まれる総和の各項で部分積分すると,
 \displaystyle{ \begin{equation*} \begin{split}  2 \int_0^\infty f(x) \cos (2\pi n x) dx  &= -\int_0^\infty f' (x) \frac{\sin (2\pi nx)}{n\pi} dx \\
&= -\frac{f'(0)}{2\pi^2 n^2} - \int_0^\infty f'' (x)  \frac{\cos (2\pi n x)}{2n^2 \pi^2} dx \\
&= \cdots \end{split} \end{equation*}
}
となる.これを繰り返して整理することで,
 \displaystyle{  \int_0^\infty f(x) dx \simeq \sum_{n = 0}^\infty f(n) + \sum_{k = 1}^\infty \frac{B_k}{k!} f^{(k - 1)} (0) . }
が得られる.ただし, B_k は Bernoulli 数である.これは, f(x) [0, \infty) における積分を, n = 0, 1, 2, \cdots での関数値の総和で近似したもの (台形則近似) の誤差評価を与えているとみなすことができる.

多次元への拡張

Poisson の和公式は多次元においても成り立つ.1 次元の場合は  \mathbb{Z} についての総和を考えたが,多次元では格子点での関数値を足し上げることになる.念のため,格子の定義を書いておく.
Def. (格子)
 e_1, e_2, \cdots , e_d \in \mathbb{R}^d を, \mathbb{R}^d の (線形空間としての) 基底とする.このとき, L = \{ n_1 e_1 + \cdots + n_d e_d \mid n_1, \ldots , n_d \in \mathbb{Z} \} を, \mathbb{R}^d の格子と呼ぶ.また, \mathrm{vol} (L) = |\det ( e_1 \; e_2 \cdots e_d) | を格子の体積と呼ぶ*1

Def. (双対格子)
 \mathbb{R}^d の格子  L に対して, L' = \{ \omega' \in \mathbb{R}^d \mid \forall \omega \in L , \; \langle \omega, \omega' \rangle \in \mathbb{Z} \} L の双対格子と呼ぶ.

証明は 1 次元の場合と似通っているため,ここでは定理のステートメントのみ述べる.

Thm. (多次元における Poisson の和公式)
 L \mathbb{R}^d の格子として, f \mathbb{R}^d 上の急減衰関数とする.このとき,
 \displaystyle{ \sum_{\omega \in L} f(\omega) = \frac{(2\pi)^{d/2}}{\mathrm{vol} (L)} \sum_{\omega' \in L'} \hat{f} (2\pi \omega') .}

参考文献

[1] 高橋陽一郎,実関数とフーリエ解析岩波書店,2006 年.

*1:体積は基底の選び方によらない.すなわち,体積は well-defined である.