ブハーリンの遺言について

ブハーリンソ連共産党の著名なイデオローグであり,ロシア革命を経てスターリンにより粛清されるまで党を代表する理論家であり続けた.レーニンは遺書においてブハーリンを「党の寵児」と表現している*1

政治的には,ブハーリンは党内右派*2であった.スターリンは,トロツキーカーメネフジノヴィエフの「レニングラード組織」に勝利するために,一時期右派と同盟していた.しかし,農業集団化政策をめぐり,スターリンブハーリンは対立することとなる.その後ブハーリンは一度失脚し,吊し上げを経て復権するが,いわゆる大テロルの時期に再度粛清され,刑死した.

ブハーリンは妻に遺言を残している.その遺言の一部は,日本語版 Wikipedia の記事「ニコライ・ブハーリン」の 2020 年 3 月 15 日版によれば以下の通りである.

無慈悲にして明確な目的をもつにちがいないプロレタリアの斧の前にうなだれ、私はこの世から消え去ろうとしている。おそらく中世のやり方をまねて巨大な力を持ち、組織的な非難をねつ造し、大胆に確信をもって行動する地獄のマシーンを前に無力を感じている。今日所謂NKVDの機関は勲章や名誉欲によって過去のチェカの権威を利用しつつ、スタ(これ以上は恐ろしくてとても言えない)の病的な猜疑心のいいなりになってそれが自業自得であることも知らずに下劣極まりない仕事に精を出している。無思想で腐った何一つ不自由のない役人どもの墜落した組織なのである。

 この遺言には違和感がある.

スタ(これ以上は恐ろしくてとても言えない)

という部分である.

第一に,なんと言うべきか,この表現はあまりにも「人が大粛清について漠然と抱く印象」に近すぎる.

第二に,ブハーリンスターリンと個人的に深い親交があり,このような言い回しをするとは(あまり)思われない.復権期に両者がきわめて親しく家族ぐるみで付き合っていたことは有名である.

この記事を読んで以来違和感をずっと引きずってきたが,今日なんとなく同記事を閲覧したところ,遺言の内容が少し変わっていた.2020 年 8 月 25 日版によれば,当該箇所は以下の通り.

現在、いわゆる内務人民委員部の諸機関の大部分――それは無思想の、腐敗した、充分に生活を保証された官吏の組織に変質し、過去のチェーカーの権威を利用しつつ、スターリンの病的な猜疑心の言うなりになり、それ以上は言うことをはばかるが、勲章と名誉を追い求めて自分の醜悪な事業をつくり出している。

 「これ以上は恐ろしくてとても言えない」に相当する部分は「それ以上は言うことをはばかるが」となり,修飾の対象が変わっている.

 

気になったので,原文を当たった*3.それによると,相当する箇所は

 At present, most of the so-called organs of the NKVD are a degenerate organisation of bureaucrats, without ideas, rotten, well-paid, who use the Chekha’s bygone authority to cater to Stalin’s morbid suspiciousness (I fear to say more) in a scramble for rank and fame, concocting their slimy cases

となっている.したがって,Wikipedia 日本語版の記述は,明らかに最新のものが正しい.

 

それにしても,「スタ(これ以上は恐ろしくてとても言えない)」のような謎の訳はどのように生み出されるのか.2020 年 3 月 15 日版では遺書の出典が明記されていないためよくわからない.エジョフが妻を粛清したという明らかな誤りが書かれていたこともあったがWikipedia 日本語版の記述の信憑性に疑念を持たざるを得ない.

*1:"Bukharin is not only a most valuable and major theorist of the Party; he is also rightly considered the favourite of the whole Party".Letter to the Congress より

*2:この「右派」「左派」という語には注意が必要である.通常の意味で解釈するべきではない.

*3:言語が英語なのは,ロンドンにて出版されたアンナ(ブハーリンの妻)の回想録が出典であるため.