「美少女に支配されたい」?「美少女に服従したい」?

はじめに

美少女の靴を舐めたい

概要

「支配される」と「服従する」との差異はなんでしょう.単に受動態と能動態の違いだとも思われますが,本当にそうでしょうか?

これらの差異や政治学的な取り扱いについては,日本を代表する政治学者の丸山眞男が,『支配と服従』(『現代政治の思想と行動』および『政治の世界 他十篇』所収.現在は後者が最も入手しやすいと思われます)という論考で詳しく考察しています.

政治の世界 他十篇 (岩波文庫)

政治の世界 他十篇 (岩波文庫)

 

この記事では,『支配と服従』の内容をなるたけわかりやすくまとめてみようと思います.なお,記事中で扱う「支配」「服従」という語は別に価値判断を含んでいないことを付言しておきます.

1. 定義

一方の人間(あるいは人間集団.以下同じとします)が他方の人間に対して継続して優越的地位にあり,それにより後者の行動様式が継続的に規定される場合,客観的にみて従属関係が生じます.支配あるいは服従という関係は,かかる従属関係の特別なパターンとして捉えることができます.

定義というか辞書的説明としてはこれだけの話で,割と簡明なのですが,これでは考察を掘り下げようもありません.もう少し具体的な説明が欲しいところです.とはいえ,ある従属関係を取ったとき,それが支配・服従関係に妥当するのかどうかを明確に線引きするのは非常に難しいので,とりあえず例を挙げて考えてみることにします.

2. 教師と学生,主人と奴隷

学生が教師に「服従」しているというのは,あまり違和感なく受け取れる事実だと思います(先述したとおり,「服従」という語には価値判断を含んでいないことに留意してください).

一方,教師が学生を「支配」していると言い切れるかというと,これは微妙になってきます.ここで重要なのは,支配関係の有無に関わらず権力関係が発生していることです.教師は学生に何かを命じたり,何かを禁じたりすることができます(し,現にしています.勉強せよ,放蕩するべからず!). さらにまた,学生の違背に対して罰を以て報いることも可能です(叱責,留年,退学……).こうした権力関係は自然に(先験的に)教育と密着していますが,しかし支配関係は発生していません.

では,支配関係が発生している事例にはどのようなものがあるでしょうか.パッと思いつくのは,古代の奴隷制ですね.この場合は明白に支配が成立しています.

教師と学生の関係・主人と奴隷の関係の差異はなんでしょうか? 丸山は,利益志向の同一性と対立性をその差異として挙げています.

教師と学生の求めているものは本質的に同じです.学生は教育を受けることで人格的ないし学問的な向上を目指しており,教師もまた学生の人間的完成を志向しています.教師が学生に加える罰も,かかる志向のもとでのみ成立します.ここにあって,教師は権威となり,学生は権威に服従するのです.

一方,主人と奴隷はその目標とするところが完全に異なります.主人は奴隷を最大限使役すること,奴隷は主人の使役から最大限逃れることを目指しています.奴隷は主人を範とすることなく,ただ物理的強制力のために労働することになります.ここで,主人から奴隷への一方的な支配関係が成立します.

こうして,記事タイトルに掲げた問いへの答えがとりあえず出てきそうです.屈服プレイにも種々様々ありますから一概に支配であるとか服従であるとかは言えませんが,ぼくは美少女に服従したい方ですね.美少女に服従するということについて詳しく語るとキモくなるので避けますが.

ここからは歴史的・政治制度的な話になります.

3. 支配と服従の歴史

一般に,古代社会は服従によって成り立っていました.族長という権威への同方向的な服従がコミュニティを支えていました.一方,社会が近代化するにつれ,支配集団と被支配集団との目的は別々の方向を向いてゆきます.人間の歴史は,極めて大ざっぱに述べて,服従関係から支配関係への転換の歴史ということになります.

さてここで,パラドキシカルですが,政治的支配が純粋な支配関係のみでは成立しないという問題が発生します.奴隷制的支配にあっては,奴隷が主人に自発的服従を以て仕えることはなく,形式的な「服従という事実」のみが生じ得ます.名前忘れたけどなんか偉い人が「奴隷労働は最も非効率的な労働形態である」と述べたのはそのためです.政治的にもそうであって,純粋な支配によって成り立つ支配機構は,抑圧のためにいたずらに巨大な装置を用意する必要に追われます.

したがって,支配者は多かれ少なかれデモクラティックな制度を立ち上げ,被支配者に譲歩し,同時に被支配者との同一化を図ることになります.ここに至って,デモクラシーという仕組みは,支配の事実を「隠蔽」して被支配者の協力を得るための偽装装置と相成ります.もちろん,かかるシステムが支配集団によって意識的に偽装として運用されるかと言えば,決してそうでもありません.現代に至るまで,徐々に支配集団がその自覚性を増してきたというあたりが本当だと思われます.

現代にあっては,この「偽装装置」であるデモクラシーを,いかにして制度的な,真に表現的なものと変えていくかが問題となります.ここで思い出すべきは,支配と(自発的)服従との差異が,両集団の利益志向同一性の有無にあったことです.社会を利益共同的な集団とし,価値の寡占を防ぐことが一種の処方箋たりうるのではないか,と考えられます.

おわりに

勢いで書いたものの,頭から読み返してみたら長いし晦渋でわけわからんですね.

3節は端折った部分が多いので,もう少し支配と服従についてちゃんと考えたい人は丸山の著書を買ってみてください.