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ごちシコの倫理#3 義務論とごちシコ

まえがきのまえがき

就寝前に半沢直樹を読んだところ,完全に交感神経が優位に立ってしまい,しかたなく物理のレポートの代わりに本稿を書いています.連休最終日の深夜に真っ暗な部屋でPCを叩き気持ち悪い文章を吐き出すイキリ高専生という構図,セネカプラトンが見たらきっと激怒すると思います.

まえがき

さて,前章では,功利主義的価値観からごちシコを論じた.本章で扱うのは,功利主義と対立する思想の義務論である.義務論は,ドイツの哲学者E.カントによって提唱された.功利主義と異なり,行為の動機を重視するのがこの義務論である.言うまでもないが,ごちシコは義務論を唱える哲学者のなかにあっても当然「善」である.本章では,義務論に関する議論を通じて,ごちシコの哲学的探求に新たな光を当てんと試みる.この間E.カントの著作を読んだが,バカなのでイマイチ飲み込めなかった(それも三大批判書といったカントの思想の根幹を成す著作ではなく,後期に上梓された政治哲学系著作である).

E.カントは,近世哲学史に燦然と名を残す大哲学者である.その思想はF.ヘーゲルに(批判的に)受け継がれ,ドイツ観念論という哲学の巨大な一分野を形成するに至った.本章の主張を読まれたごちシコ者が,「あのE.カントも擁護したごちシコ,あなたもやってみませんか」などと述べつつ,ごちシコを広く布教されることを強く願う.

Ⅲ義務論とごちシコ

(1)義務論と格律

まえがきでも述べたとおり,義務論はドイツの哲学者イマヌエル・カントによって唱えられた.カントの思想は普遍性の思想である.すなわち,仮言命法(「もし~ならば,~せよ」)を退け,定言命法(「いついかなるときも,~せよ」)を人生の杖となす思想こそが,カントの倫理学である.

カントは,定言命法によって支持される行為こそが正しい行為だとした.カントは,その行為が定言命法に依っているかどうかを判断するための材料(格律)を,以下のように定めた.

  1. 普遍的たれ
  2. 他の理性的存在を手段として扱うな
  3. 自律せよ

これらの格律について詳しく述べるのは,紙幅の都合上避けざるを得ない.詳しくは社会の先生とかに聞いていただきたい.

 

(2)義務論とごちシコ

カントが述べた普遍性の原則は,当然ごちシコを支持する.なぜならば,ごちシコは「いつ・いかなるときも」「正しい」ものであるからである.カントの格律に,ごちシコを当てはめて考えてみる.

1)ごちシコは普遍的であるか?

これは論をまたないであろう.ごちシコは,ごちシコ可能なあらゆる時・場所・場合において善である.たとえあなたが西暦2017年の日本人だろうと,西暦100年のローマ人だろうと,ごちシコは善き行為たりうる.

2)ごちシコは理性的存在を手段として用いていないか?

ごちシコを非難する哲学者は,よく「アニメキャラを性欲発散の対象としてしか捉えない醜さ」をあげつらう.しかし,ごちシコは「自慰」ではない.ごちシコは,自らをより崇高な状態におくための宗教的儀式に近い.キリストを崇め奉るキリスト教徒を,「あなた方はキリストを手段として用いている」と難詰する哲学者が果たしているだろうか.

3)ごちシコは自律的か?

カントは,理性以外のもの(他者の誘惑,短絡的な思考など)に耳を傾けることを禁じた.第Ⅰ章から繰り返し述べてきたことであるが,ごちシコは理性的な行為であり,決して短絡的で獣のごとき情欲からなされる行為ではない.

 

カントの格律にあてはめてごちシコを考えてみた.やはりごちシコは正義だった.はぁ~~~~~~~~~~~~~~^ココリゼ尊いんじゃ……

 

(3)おわりに

義務論の視座からごちシコを考えた.一気呵成に書き上げたので疲れた.まとめる気力もないので手短に述べると,本章の論理を経て,ごちシコは倫理学におけるほぼすべての学説から支持されたことになった.次章では,従来の思想を土台にし,さらに発展的な未来志向のごちシコ論を展開する.