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比較ごちシコ論 #1

まえがき

2017年7月号の『図書』(岩波書店が発行している月刊誌)に,政治学者の原武史氏が書いた『三笠宮との対話』という文章が載っていました.主題とはあまり関係ありませんが,その文章の書き出しはこうでした.

人文社会系の学者にとって,研究対象との「距離」をどうとるかは難しい問題である.対象から離れれば離れるほどとらえづらくなるが,かと言って逆に没入してしまうと客観視できなくなるからだ.

当たり前といえば当たり前のことです.ごちシコ論の分野においても,この主張は当てはまると思います.もちろん,私は学者ではありませんし,ごちシコ論は(残念なことに今なお)人文社会系の一学問分野として認められていません.ですが,学問(科学)以外の世界でも,「客観的な視座に立つ」というのは極めて重要なことです.

しかるに,考察対象との適切な距離を保ちながら考察を行うことは,易しいことではありません.主観的な考え方にとらわれた文章(私が書く文章もその一つだと考えられます)は,インターネット上はもちろんのこと,活字の世界においてさえたくさん見受けられます.客観的な視座に立つには,よほどの努力が必要だとすら思えてきます.

しかし,実は,「客観的にものごとを考える」という難題の解決に挑む人々をサポートしてくれる道具があります.それが「比較」です.考察対象と類似しているもの,あるいは考察対象と正反対のものなど,別の考察対象を持ち出すことで,ものごとをより多角的に捉えることができるようになります.

いま,「比較」という道具を用いた新しい学問が発展しつつあります.その一つが「比較文化論(比較文化学)」です.小学校の平和教育ビデオみたいなことを書きますが,「異文化への偏見」は,歴史のなかで少なからず戦争の理由になってきました.4000年間ずっと戦争をやりつづけ,いい加減疲れてきた人類は,最近になってようやく「異文化の尊重」ということを学びました(遅すぎると思います).そして生まれたのが,相対化によっておのおのの文化をとらえる「比較文化論」です.

本テキストは,そういった時代の潮流を鑑み,ごちシコを他作品シコとの連関を通じて考え直そうとして書かれたものです.

まえがきが大変長くなってしまい申し訳ありません.クッソ下世話なテーマのためにこれほど長いまえがきを書いてしまった自分に呆れています.さっさと次に進みましょう.

もざシコ

まんがタイムきららが誇る神聖漫画こときんいろモザイク(以下きんモザ)ですが,信じられないことにこれでシコる人も存在します.

きんモザの特徴を列記すると,だいたい以下のようになります.

  • 金髪
  • アリス・シノ・カレン,綾・陽子の百合感が素晴らしい
  • 登場人物同士の友情がすごいしヤキモチ焼いたりする
  • 久世橋先生がかわいい
  • ギャグが比較的多め
  • 癒される

まんがタイムきららの作品はよく「どれもこれも似たようなやつばっかり」と言われますが,きんモザごちうさの間には結構明確な差があると思います(主観).というのも,きんモザは「癒される」漫画ですが,ごちうさは「尊い」漫画なのです.この差がシコの際にも現れます.

ぼくはきんモザではシコれません.なんかシコる気になれないからです.そもそも,ごちシコさえ「性的」に行っているわけではありません.ごちシコは「畏敬の念を具体化する一種の儀式」だからです.つまり,ごちシコは「ごちシコ」ではなく「ごちサクラメント」と呼ばれるべき行為です.しかし,きんモザは「尊い」漫画ではなく「癒される」漫画です.ごちうさが神なら,きんモザはロイヤル・タッチを行う世俗君主です.

 

一気に文章を書くとまとまりがなくなってしまいますね.脳みそが混乱してきたのでこのあたりで執筆を切り上げようと思います.結局ごちシコをロクに考察できていませんが,なんとなくモザシコとごちシコの違いをわかってもらえたら嬉しいです.

ごちシコの倫理#4 現代思想におけるごちシコ―国際主義を念頭において―

まえがき

第一章第二章第三章の各章では,古典的な思想(ストア派哲学,功利主義,義務論)に基づきごちシコを論じてきた.本章では,主に20世紀以降発展した現代思想を下敷きにしてごちシコを論じる.なかでも,21世紀の世界において盛んに叫ばれている「国際化(グローバル化)」という言葉を念頭におき,ごちシコの思想をより広い環境に敷衍して考える.現代思想の視座に立った考察を通じて,よりモダンな形態のごちシコ論を世に広めたい.

Ⅳ:現代思想におけるごちシコ―国際主義生命倫理学を念頭において―

(1)国際化のいきさつ

産業革命以降,国と国との距離は決定的に縮まった.運輸手段の発達により,ヒト・モノ・情報が,よりスピーディーに行き来するようになった.また,20世紀後半以降になって急速に発達した情報通信技術は,情報が行きかう速さを限りなく速めた.いまや,日本とアメリカの"事実上の距離"はほぼゼロに近い.「世界の縮小」という背景を持つ現代において,人々がどのように他コミュニティの人々と向き合うか,という問題は,非常な重みを持っている.エスノセントリズム(自文化中心主義)の問題はその最たるものである.文化が絶え間なく混淆する現代にあって,人々は,ともすれば異文化を"異常"とみなして排斥しがちである.「多文化をいかにして共存させるか」という問いは,人類揺籃のときに発され,古代ギリシャで発され,中世のヨーロッパ・中東で発され,そして現代でもまた発され続けている.

 

(2)国際社会におけるごちシコ

いうまでもなく,ごちうさは日本で生まれたコンテンツである.しかしながら,この偉大なカルチャーは,あっという間に世界中に普及した.

ごちうさの特徴は,なんといっても登場人物がことごとく尊いことである.まんがタイムきらら作品に共通して見られる事象ではあるが,その中でもごちうさが抜きんでて「尊い」のだ.「尊い」という感情は世界共通である.オーロラなどの自然現象,神が起こしたとしか思えないような奇蹟,巨匠の手になる名画など,心に崇敬の念を呼び起こす事象というものは,いつでも,どこにでも存在しうる.もちろんのこと,ごちうさは「美しい自然現象」であり,「神が起こした奇蹟」であり,「巨匠が全身全霊を込めた名画」であるごちうさが世界中に広まったことも,そういった共通の感情を考えれば当然だと言える.

エスノセントリズムは20世紀が生み出した魔物である.異文化を理解すること,更には異文化と交流することが,21世紀の課題である.そして重要なことであるが,ごちうさエスノセントリズムが称揚するところの自文化ではないごちうさは人類共通の文化基盤である.たまたま日本でごちうさが誕生したため,ごちうさは日本文化―"クールジャパン"思想に基づき世界中に強くアピールされる文化―であるかのように扱われている.しかし,繰り返すが,ごちうさは人類共通である.アメリカで生まれようと,フランスで生まれようと,モンゴルで生まれようと,ごちうさごちうさである.「尊い」という感情が具体化したもの,それすなわちごちうさである.

人々の国境を超えた結合は,古来こいねがわれてきた.E.カントによれば,国際的な連合の成立こそ,人類が最終的にたどり着く社会の形態である.ごちシコを通じて人々が共通の博愛心を持ち,互いの文化に理解を持つ世界こそ,人類が目指すべき未来ではないだろうか.ごちシコが人々の間でいわば「接着剤」としての役割を果たせることは論をまたない.

科学技術の進歩により国際化の度合いを深めていく世界において,ごちシコは更にその地位を高め,世界共通の行為としての地歩を固めていくだろうと考えられる.「未来の社会とは,ごちシコの社会である」.これが本章の結論である.

 

あとがき

これまで,四章にわたり,ごちシコを倫理学的視座から考えてきた.一つの思想に拘泥することなく,複数の思想を概略的に捉えることに努めた.本テキストでの考察により,ごちシコが一文化としての地位を与えられることを期待している.

なお,本章を執筆するにあたり,第一章から第三章までの文章を見直し,不十分だと思われる部分を訂正した.今後とも,賢明な読者諸氏の指摘を受け,テキストをよりよいものにしていきたい.

ごちシコの倫理#3 義務論とごちシコ

まえがきのまえがき

就寝前に半沢直樹を読んだところ,完全に交感神経が優位に立ってしまい,しかたなく物理のレポートの代わりに本稿を書いています.連休最終日の深夜に真っ暗な部屋でPCを叩き気持ち悪い文章を吐き出すイキリ高専生という構図,セネカプラトンが見たらきっと激怒すると思います.

まえがき

さて,前章では,功利主義的価値観からごちシコを論じた.本章で扱うのは,功利主義と対立する思想の義務論である.義務論は,ドイツの哲学者E.カントによって提唱された.功利主義と異なり,行為の動機を重視するのがこの義務論である.言うまでもないが,ごちシコは義務論を唱える哲学者のなかにあっても当然「善」である.本章では,義務論に関する議論を通じて,ごちシコの哲学的探求に新たな光を当てんと試みる.この間E.カントの著作を読んだが,バカなのでイマイチ飲み込めなかった(それも三大批判書といったカントの思想の根幹を成す著作ではなく,後期に上梓された政治哲学系著作である).

E.カントは,近世哲学史に燦然と名を残す大哲学者である.その思想はF.ヘーゲルに(批判的に)受け継がれ,ドイツ観念論という哲学の巨大な一分野を形成するに至った.本章の主張を読まれたごちシコ者が,「あのE.カントも擁護したごちシコ,あなたもやってみませんか」などと述べつつ,ごちシコを広く布教されることを強く願う.

Ⅲ義務論とごちシコ

(1)義務論と格律

まえがきでも述べたとおり,義務論はドイツの哲学者イマヌエル・カントによって唱えられた.カントの思想は普遍性の思想である.すなわち,仮言命法(「もし~ならば,~せよ」)を退け,定言命法(「いついかなるときも,~せよ」)を人生の杖となす思想こそが,カントの倫理学である.

カントは,定言命法によって支持される行為こそが正しい行為だとした.カントは,その行為が定言命法に依っているかどうかを判断するための材料(格律)を,以下のように定めた.

  1. 普遍的たれ
  2. 他の理性的存在を手段として扱うな
  3. 自律せよ

これらの格律について詳しく述べるのは,紙幅の都合上避けざるを得ない.詳しくは社会の先生とかに聞いていただきたい.

 

(2)義務論とごちシコ

カントが述べた普遍性の原則は,当然ごちシコを支持する.なぜならば,ごちシコは「いつ・いかなるときも」「正しい」ものであるからである.カントの格律に,ごちシコを当てはめて考えてみる.

1)ごちシコは普遍的であるか?

これは論をまたないであろう.ごちシコは,ごちシコ可能なあらゆる時・場所・場合において善である.たとえあなたが西暦2017年の日本人だろうと,西暦100年のローマ人だろうと,ごちシコは善き行為たりうる.

2)ごちシコは理性的存在を手段として用いていないか?

ごちシコを非難する哲学者は,よく「アニメキャラを性欲発散の対象としてしか捉えない醜さ」をあげつらう.しかし,ごちシコは「自慰」ではない.ごちシコは,自らをより崇高な状態におくための宗教的儀式に近い.キリストを崇め奉るキリスト教徒を,「あなた方はキリストを手段として用いている」と難詰する哲学者が果たしているだろうか.

3)ごちシコは自律的か?

カントは,理性以外のもの(他者の誘惑,短絡的な思考など)に耳を傾けることを禁じた.第Ⅰ章から繰り返し述べてきたことであるが,ごちシコは理性的な行為であり,決して短絡的で獣のごとき情欲からなされる行為ではない.

 

カントの格律にあてはめてごちシコを考えてみた.やはりごちシコは正義だった.はぁ~~~~~~~~~~~~~~^ココリゼ尊いんじゃ……

 

(3)おわりに

義務論の視座からごちシコを考えた.一気呵成に書き上げたので疲れた.まとめる気力もないので手短に述べると,本章の論理を経て,ごちシコは倫理学におけるほぼすべての学説から支持されたことになった.次章では,従来の思想を土台にし,さらに発展的な未来志向のごちシコ論を展開する.

ヤクルトスワローズの試合結果を拾ってくるやつ

すべての始まり

 

やったこと

PHPhttps://baseball.yahoo.co.jp/npb/teams/2/scheduleスクレイピングして試合結果を取得する.ネイティブで実装できる上にめっちゃ簡単なのでPHPは神

f:id:villach:20170430221812p:plain

画像は27日の授業を想定したやつ.めっちゃ文字化けしてることを除けばうまくいってる.

あとはcronで回せば終わり!閉廷!

Yahoo!に怒られたらやめます

今後の展望?

#ONSハッシュ関数 - Twitter Searchを見てもらえばわかるが,得点がそのまま指名に直結している例は一つもない.

https://baseball.yahoo.co.jp/npb/game/2017042701/top みたいなところから試合の詳細を取得したり,連勝・連敗を考慮できるようにしたい.

圧倒的感謝

PHPネイティブのDOMによるスクレイピング入門 - Qiita

ごちシコの倫理#2 功利主義とごちシコ

まえがき

前章では,ヘレニズム哲学の視座からごちシコを肯定した.本章および次章では,より近代的な哲学思想である功利主義と義務論の立場からごちシコを考察する.前章で触れたヘレニズム哲学と,これから論述する功利主義哲学との間には,約二千年もの時間的距離が存在する.

もちろん,その間の人類が哲学を捨てていたというわけではなく,中世にもれっきとした哲学思想は誕生している.しかし,中世哲学は,キリスト教の影響を大きく受けており,ごちシコが受け入れられる余地はない.キリスト教徒がごちシコを「邪淫」とみなし排斥していた時代の思想をもとにごちシコを擁護することは難しい.そもそもにわかなので中世哲学がよくわかっていない.数ヶ月前概説書を読んだが,トマス・アクィナスのあたりで完全に無理になった.したがって,中世哲学とごちシコとの連関を述べることは避け,いきなり近代哲学に触れることとなった.

前置きが長くなってしまった.本章で触れる功利主義哲学は,現代においても盛んに論じられる哲学思想である.たとえば,D.ベネターが功利主義の立場から反出生主義を唱えている.現代社会におけるごちシコの地位向上のためにも,功利主義哲学に基づきごちシコを論ずることは有用であると信ずる.

Ⅱ:功利主義とごちシコ

(1)功利主義とは

功利主義ベンサムやJ.S.ミルらによって唱えられた近代哲学思想である.ストア派と同時代に生まれたエピクロス派との共通点も多い.思想の根幹をなす主張として,快楽計算に基づく「最大多数の最大幸福」の実現が挙げられる.より簡単に言えば,「きもちいいことは善いことである」ということになる.
ここで重視すべきなのが,快楽とは必ずしも肉体的(動物的)快楽を指すわけではない,という事実である.ミルによれば,知的活動や芸術鑑賞から成る人間的快楽は,食事や睡眠,性行為や名誉の獲得から成る動物的快楽よりも「質的に優れている」.この考えは,ミルの有名な格言によって端的に示されている.

満足な豚であるより,不満足な人間であるほうがよい.満足な人間であるより,不満足なソクラテスであるほうがよい.

 

(2)功利主義とごちシコ

人間的で高尚な快楽を尊ぶミル流功利主義において,ごちシコは悪とみなされるのだろうか?答えは否である.なぜなら,ごちシコこそが最も優れた人間的快楽であり,知的活動であるから.

ごちシコは性的なオルガズムを生み出す.これは確かに事実である.しかし,ごちシコは多分に芸術的側面を備えている.ミロのヴィーナスを見て感嘆のため息を漏らすことは,人間的ではないのだろうか?モナ・リザを目前にして,その美しさにうち震えることを,動物的で悪しき行為だと非難する人が果たしているだろうか?同じように,ごちうさ絵は芸術作品であって,それを見てシコることは芸術鑑賞の一環なのである.これが人間的快楽でなくて何なのか.

ごちシコはまた,少数派の快楽にとどまらない.ごちうさ絵は世に広まっており,しかも安価で入手できる.ごちシコ者による布教と伝授を通じて,ごちシコは全人類が日常的に行う行為になる.多数の人間が,ごちシコという人間的快楽を味わうのである.「最大多数の最大幸福」という目標を,もっとも迅速かつ高度に実現する唯一の手段がごちシコなのである.

 

(3)おわりに
以上,功利主義哲学の立場からごちシコを論じた.ごちシコはやはり尊かった.次章では,功利主義哲学と対立する思想である義務論にもとづき,ごちシコを考察する.

ごちシコの倫理#1 ヘレニズム哲学とごちシコ―ストア派哲学を例に―

まえがき

ごちシコは気持ちいい.これはなんぴとの力をもってしても動かしがたい事実である.しかし,ごちシコが社会的な理解を得られていないこともまた事実である.ごちシコに文化としての位置を与えるためには,ごちシコを研究することが要求される.そうでありながら,ごちシコに関する総合的,概略的な研究は試されこそすれ,ごちシコを哲学的に理解する試みは今まで全くされてこなかった.本テキストは,哲学史的な観点からごちシコを捉えることで,ごちシコ界に哲学の光を導入しようとする目的のもと執筆された.

本テキストは,「#1 ヘレニズム哲学とごちシコ―ストア派思想を例に―」「#2 功利主義とごちシコ」「#3 義務論とごちシコ」「#4 現代思想におけるごちシコ―国際主義を念頭において―」の各章から成り立つ.4つの視点からの考察を通じて,ごちシコ者が哲学を知り,哲学者がごちシコを嗜み,ごちシコを認める空気が社会に醸成されるならば,望外の喜びである.

なお,本テキストでは,ごちシコを「Koi絵でシコること」と定義する.同人誌を含む二次創作でシコることはごちシコに含まれないものとする.あらかじめ「シコ」を前提としたコンテンツに触れ,「作為的なごちシコ」を享受するのではなく,「心の底から沸き立つごちシコ」こそが真のごちシコであるという観点に立つ.

Ⅰ:ヘレニズム哲学から見たごちシコ―ストア派哲学はごちシコを容認するか?

(1)ごちシコと自然

西洋文明揺籃の地であるギリシャにおいて生まれたストア派哲学は,自然との調和,禁欲,平静などを根本教義としている.そのため,ごちシコとストア派哲学は相容れないと考えてしまうかもしれない.しかしながら,ごちシコの根底をひもとけば,実はごちシコこそ真にストア派的な行為であるとわかる.

ストア派が禁じている「欲望をもつこと,道徳的に腐敗すること」とは,「自然から逸脱すること」と言い換えられる.たとえば,食事することは,自然から逸脱していないうち(空腹を解決することのみを目的としてなされるうち)は「善いこと」である.しかし,舌を喜ばせること,下腹部を必要以上に満足させることが目的となった途端,食事は「悪いこと,悪徳」となる.

食事の例と同じように,ごちシコもまた自然から逸脱しない限りは「善いこと」なのである.ごちうさ絵を見た瞬間,自らの意志とは関係なく性欲が沸きだす,という経験を,読者も一度はされていると思う.つまりごちうさ絵でシコることは,道徳的腐敗でもなんでもない単なる生理現象なのだ.お腹が空いたからご飯を食べる,眠いから寝る,ごちうさ絵を見たからごちシコする,全て同じことである.

イギリスの作家ジョージ・オーウェルは,代表作『1984年』のなかで,まったき知性の人であるオブライエンをして,次のように語らしめている.

高いところから真っ逆さまに落ちるとき、ロープをぐっとつかむことは少しも臆病ではない。深い水の底から上がってきたとき、肺いっぱいに空気を吸おうとすることは決して臆病ではない。つまりそういう行動とは単に、どうにも抗うことのできない本能なのだ。

オーウェル流に言えば,「ごちうさ絵を見たとき,沸騰する性欲を処理することは少しも退廃ではない」ということになる.

 

(2)性的とはみなし難いごちうさ絵でシコることは退廃か?

ごちシコが自然な本能であるという論述はだいたい終了した.だが,ストア派哲学者の激しい攻撃からごちシコを擁護するには,まだ論が不十分である.「性欲をいっさいかきたてない絵,具体的には肌の露出が皆無のKoi絵でシコることは,自然からの逸脱ではないのか」という類の批判に答えておく必要がある.以下に批判への回答を示す.

われわれがなんらかの物体を見るとき,われわれの脳は物体を2つの側面から理解する.2つの側面とは外観と内容である.たとえばリンゴは,「赤い球体」という外観と「甘くて青森県とかで大量に採れる果物」という内容を持っているからこそ,リンゴたりうるのである.これに照らし合わせてみれば,ココアちゃんは脱いでいようが厚着していようがココアちゃんである.厚着しているココアちゃんでシコることは全くやましくない.そもそも脱いでないココアちゃんも十分に性的である.シャロちゃんだってヴィーナスの5000兆倍は美しい.ボッティチェリは現代に生まれなかったことを後悔しているに違いない.リゼちゃんは神.

 

(3)おわりに

以上,ごちシコがストア派的価値観からも十分に受け入れ可能であることを簡単に述べた.21世紀の日本においてもなお,ストア派哲学は多大なる影響を持っている.たとえば「ストイック」という単語はストア派哲学から来ている.ストア派哲学とごちシコとの調停が,「善い」生き方,「自然な」生き方を追い求める日本人の心理的ごちシコハードルを下げることに繋がると確信している.